【第六章 畿内】第七十六話 二度目の参内 此度だけじゃぞ
一五六六年 早春 京 御所
海北綱親は、長政の後ろについて御所の門をくぐった。
二度目の参内であった。前は、こちらから使いを重ねて日をもらった。
今度は御所から使いが来た。参内せよと言うだけで、用向きは告げなかった。長政は使いを帰すと馬を引かせ、海北一人を供に連れてきた。
門の脇では、職人が築地の土を練っていた。前に崩れたところを塞いでいた板は、もう外されていた。あの参内から戻って、長政が入れさせた者たちである。長政は職人の方を見ず、庭へ進んだ。
草は前より少なくなっていた。長政は同じところへ膝をつき、海北は庭の端へ下がった。広橋国光が縁へ出ると、長政が頭を下げた。国光は縁に座り、庭へ声をかけた。
「浅井殿。南山城が、騒がしいと聞く」
「騒がしい、とは」
長政は平伏したまま訊いた。国光の手が、膝の扇に触れた。
「大和の弾正が、なにやら兵を出したとか」
海北はその手を見ていた。大和を押さえている松永のことである。国光は扇に手を添えたまま、言葉を続けなかった。
「大和の、弾正殿が」
長政が訊き返した。国光は答えず、庭の長政を見下ろしていた。
「京の近うが騒がしいのは、よろしゅうない」
そこで口を閉じた。長政は額を下げたまま待っていた。
「京の儀は、そなたに任せおいたはずじゃ」
海北は顔を上げかけた。前に参ったとき、国光は任せおくとしか言わなかった。京の儀、と言ったのは長政である。今は、国光の口から出ていた。
国光は縁に座ったまま、長政の返事を待っていた。長政は頭を下げている。海北からは顔が見えなかった。背も動かず、国光が言葉を足すこともなかった。風に揺れていた草が、長政の袖へ触れた。
「畏れながら。南山城を鎮めよ、との仰せにござりまするか」
国光はすぐには返さなかった。扇に添えた手が、膝の上で止まっていた。
「・・・そう受け取られてよい」
「松永殿を討て、との仰せにござりまするか」
扇が膝の上で動いた。国光の声が早くなった。
「そこまでは、申しておらぬ」
長政はまた黙った。国光の指が扇から離れた。長政は顔を上げなかった。海北は庭の端で膝をついたまま、次の言葉を待った。
「鎮めるまで、にござりまするな。境目の乱れを鎮めるまで。それより先は、申し付けられておらぬ、と」
「麿は、それより先のことは、何も申しておらぬ」
長政は承ったと答え、砂へ額をつけた。国光はしばらくその頭を見下ろしてから、縁の奥へ入っていった。
帰りも、公家たちの詰める間の前を通った。障子は閉まっていた。中から声は聞こえなかった。門の脇では、まだ職人が土を練っていた。
「海北。兵を出す。南山城へ」
長政は馬のそばで足を止め、屋敷に戻ったら支度をさせよと命じた。数は多くなくてよい。境目を押さえるだけでよいという。海北は頭を下げたが、馬へは向かわなかった。
「殿が、出られまするか」
「出る」
長政は馬へ向き直った。市は出られない。去年の秋に三好を退けてから、初めて兵を出す。その先に、市の黒い馬はいない。
「鎮めるまで、にござりまするな」
「鎮めるまでじゃ」
長政は馬に乗り、鞍の上から海北を振り返った。
「それから、市には悟られるな」
◇
屋敷の表で、出立の支度が始まった。
南山城へ出す五百は淀で待っている。ここでは長政と供の馬を揃え、糧を駄へ積んでいた。
海北は帳面を持ち、表の庭と奥の馬屋を行き来した。俵は表で積ませた。奥からは見えない。だが、馬だけは奥の馬屋から引き出すほかなかった。野村が一頭ずつ脚を見て、長政と供の馬を揃えていた。市の替え馬を預かる男である。
長政は渡り廊下から支度を見ていた。海北が三日分の糧を積んだと報せると、あと一日分を命じた。一度だけ奥へ向けた目は、もう駄へ戻っていた。海北は帳面に書き足し、俵を運ぶ者を呼んだ。
奥の廊下に市が出てきたのは、そのときであった。
寝間着に羽織をかけ、髪はまとめていなかった。顔が白く、頬の色が抜け、目の下が暗かった。合わせた羽織の帯のあたりが、わずかに前へ張っていた。
市は廊下の途中から、表の方を見ていた。そこから庭は見えないが、駄を引く声と俵を下ろす音は届いていた。
馬屋から、鞍を置いた馬が出た。
市の目がそちらへ動いた。馬の背の鞍を見ていた。白い顔の中で、目だけがいつもの目になった。海北が声をかける前に、市は長政のところまで歩いてきた。女中頭が後ろを追っていた。
「戦じゃろ。わしも出るぞ」
どこへ行くのかも、誰と戦うのかも訊かなかった。長政が市へ向き直った。
「市。此度は、出られませぬ」
「なぜじゃ」
長政はすぐには答えなかった。馬屋の戸口には二人、馬の口を取ったまま立っていた。海北が見ても、二人は市の方を向いたままであった。
「・・・お体が」
「何ともないわ。今朝は少し気分が悪かっただけじゃ。馬に乗れば治る」
「なりませぬ」
低い声であった。市の眉が寄った。長政の向こうで、野村も馬の脚を見る手を止めていた。海北は帳面から指を外した。書き足した糧は、まだ積み終わっていなかった。
「長政」
「なりませぬ」
市は口を開きかけた。その手が口元へ上がり、体が前へかがんだ。女中頭が駆け寄って背に手を当てた。市は柱へ片手をついた。口を押さえたまま、肩が二度、三度と揺れた。
「馬を、表へ回せ」
海北は馬屋へ声を張った。戸口の二人は、まだこちらを見ていた。
「表で鞍を締め直せ。ここは狭い」
二人が慌てて馬の向きを変えた。海北は、二人とも表へ回るまで見届けた。馬屋の戸口には野村だけが残った。市を見ていたが、近寄らなかった。表からは馬を引く声がした。俵を下ろす音は、いつの間にか止んでいた。
市の肩の揺れが止まった。口から手を離しても、柱は掴んだままであった。その指に力が入っていた。女中頭が背をさすり、顔を覗き込んだ。市は女中頭の方を向かなかった。
「お市様、奥へ」
「何ともないと、言うておろうが」
声がかすれていた。市は柱から手を離し、体を起こした。長政を見た。長政は何も言わずに市を見ていた。
「わしの馬を、出せ」
市が野村へ顔を向けた。野村は戸口で膝をついた。返事をせず、長政を見た。長政が小さく首を振った。野村は頭を下げた。馬屋の戸は開いていた。野村は、その中へ入ろうとしなかった。
「出せと言うておる」
野村は動かなかった。市もその場から離れなかった。海北は帳面を閉じた。野村が頭を下げたままでいると、市の目が長政へ戻った。目が細くなっていた。
「わしの馬じゃ」
「存じておりまする。此度は、お出しできませぬ」
市は長政を見上げていた。馬屋へは行かず、奥へも戻らなかった。長政もその前を離れなかった。海北は閉じた帳面を抱え、二人のそばに立っていた。女中頭が市の背から手を離し、そっと袖を引いた。
「お市様。お体に、障りまする」
市は一歩下がった。もう一度、長政を見た。
「此度だけじゃぞ」
承知した声ではなかった。女中頭に袖を引かれ、奥へ戻っていった。途中で一度だけ振り返った。表から聞こえる声の方を見ていたが、やがて廊下の角へ消えた。
長政はそれまで動かなかった。市が見えなくなると、表へ向き直った。
「海北。支度を続けよ」
海北は頭を下げ、馬屋を見た。野村はまだ膝をついていた。
「野村。殿の馬を、表へ」
「・・・承知」
野村が立ち、馬屋へ入っていった。引いてきたのは長政の馬であった。野村はその口を取り、表へ回した。海北も帳面を開いた。俵を積む声が戻った。
昼を過ぎて門が開いた。長政が馬に乗り、供の騎馬と駄が後ろへ並んだ。海北は門の内に立っていた。
「城南宮に参ってから、淀へ下る」
海北は頭を下げた。京を任されている。長政が門を出ると、騎馬と駄が続いた。
海北はその列には加わらず、最後の一頭が見えなくなるまで、門の内から見送っていた。
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