【第六章 畿内】第七十五話 松永久秀 誰に断る筋もないわ
一五六六年 早春 大和 多聞山城
松永久秀は、本丸の座敷から奈良の町を見ていた。
瓦と板の屋根が重なり、そのあいだから寺の大きな屋根が突き出ていた。東大寺の大仏殿も、興福寺の塔も見える。障子は細く開けてあった。開け放すには、まだ風が冷たかった。
多聞山城は、町の北の端の丘にある。丘を削り、石を積み、縁に長い櫓を巡らせた。大和を押さえる者の城として、松永が造らせた城であった。
城の裏へ回れば、奈良坂の上りになる。奈良から京へ向かう道は、この坂を越えて木津の川沿いへ出る。坂を越えれば、そこはもう大和ではない。山城であった。
廊下に足音がした。家臣が膝をつくと、松永は町から目を戻した。
「京から、返事か」
「いえ。まだ、届いておりませぬ」
年が明けてから、京の公家である義兄を通し、大和の支配を御所に認めてもらいたいと頼んであった。多聞山も、信貴山も、筒井の城も、松永の兵が守っている。だが、大和を治めてよいと認めた書付は、一枚もなかった。
三好の下にいた頃は、それで済んだ。三好が認めていれば、国衆にもそう言えた。その三好が、去年の秋に崩れた。長逸は阿波へ去り、宗渭は河内に籠り、友通は討たれた。三人が再び揃うことはあるまい。
松永は、あの戦に兵を出さなかった。どちらかに付いていれば、負けた方と一緒に潰れていたかもしれぬ。大和は手元に残ったが、その大和を松永のものだと言う者まで、いなくなった。
「まだか」
家臣は頭を下げた。急かしても、この男から御所の返事が出るわけではない。松永は膝へ手を置き、続きを促した。
「それで、何じゃ」
「南山城に、また牢人どもが出ておりまする。木津の川沿いの村が、二つ荒らされました。奈良坂の下にも、姿を見せた由にござりまする」
松永は座敷の奥の絵図へ移った。大和と山城の境が描かれている。家臣をそばへ呼び、どの村か指させた。指は木津の川から、奈良坂のすぐ手前へ動いた。
「そこまで来たのか。坂は越えておらんのじゃな」
「まだ、越えてはおりませぬ」
家臣の指が村の印を隠していた。松永はその手を退かせ、道を確かめた。城から兵を出せば、すぐに届くところであった。
「近いのう。数は」
「五十か、百か。いくつかの群れに分かれておりまする。まとまってはおりませぬ」
松永は絵図から顔を上げた。家臣の話は、兵の数のところで止まっていた。
「村の者は、どうしておる」
「家を閉じておる者も、逃げた者もおりまする。一つの群れが去っても、また別の者どもが来ると」
家臣は絵図から手を引いた。南山城の国衆は、それぞれの村を守るので手一杯であった。友通が討たれてから、村々をまとめて守る者はいない。
「誰ぞの旗を立てておるのか」
「旗は、ないそうにござりまする。ただ、友通の下におった者も、交じっておるやもしれませぬ」
家臣は、そこで口を閉じた。松永も三好の下で兵を率いてきた。去年までは、同じ家の兵であった。
「では、誰があやつらを呼び戻すんじゃ」
家臣は答えなかった。松永は返事を待ったが、名は一つも出てこなかった。城を持ち、兵を食わせている松永の前で、家臣は膝の上に手を置いていた。
「誰もおらぬなら、また次の村へ行くわ。大和へ入るまで待ってはおられん」
松永は奈良坂を指し、その向こうの村へ指を滑らせた。家臣はその手を見たまま、返事をしなかった。
「兵を出す。南山城へ入って、木津の川沿いの牢人どもを、片端から討て」
「なれど、殿。坂の向こうは、大和ではござりませぬ」
「分かっとるわ。入ってからでは遅いんじゃ」
松永は絵図の大和の側へ手を移した。村の名が並んでいる。どの村の国衆も、今は松永に従っていた。表立って逆らう者はいなかった。
筒井の小僧が戻ってきても、そうであろうか。
去年、城からは追い出した。だが、筒井は大和の古い家である。小僧が生きているかぎり、旗はまた立つ。国衆の誰がそちらへ走るか。松永は村の名を二つ、三つと追い、そこでやめた。
今は、皆がこの城へ来て頭を下げる。城を失った小僧にも、まだ従う者がいる。大和へ入ってきて武で取った松永には、御所が認めたという一言が要った。
「大和の村を荒らされてみい。わしには守れんと、言い出す者が出るわ」
家臣は絵図へ目を落とした。松永の手のそばには、筒井の城の印があった。松永は指を離し、奈良坂の向こうへ戻した。
「あそこは浅井の地ではない。三好に代わって押さえる者もおらん。牢人を討ったとて、誰の地を攻めたことにもならん。誰に断る筋もないわ」
家臣はうなずきかけ、木津の川の先を見た。
「淀には、浅井の兵がおりまするが」
「淀へは行かぬ。牢人がおるのは、どこの村じゃ。今、自分で指したじゃろが」
家臣は先ほどの村を指した。松永はうなずき、兵は千でよいと告げた。牢人が相手なら、それだけで足りる。家臣が膝を引く前に、自分も出ると言った。
「殿も、にござりまするか」
「わしが出た方が、早う片付くじゃろ。国衆にも、よう見せておけ。わしが大和の外まで出て、守ったのじゃとな」
御所から返事が来ぬ間にも、大和を守る者が誰かは見せておける。松永が手を離すと、家臣は頭を下げた。座敷を出ていく足音は、入ってきたときより速かった。
松永は絵図の前に残った。淀では、浅井が城を直し、牢人を集めているという。京の若い当主は、町でも兵に物を取らせず、代を払わせている。取った京を手放さぬために、淀にも兵を置いたのであろう。
京の口を塞いだ。それなら分かる。松永は淀の城の印を見てから、京へ目を移した。
あの女も、そこにいる。
浅井の奥方であるという。黒い馬に乗り、具足もつけず、薙刀を持って大将のところへ駆けてくる。去年、三好の兵は女が来ると引いた。山崎では、阿波から担いできた公方まで斬られたと聞いた。
松永は、その女を見たことがない。三好の者から戦の話を聞くと、女のところで声が変わった。どれほど兵がいたかを訊いても、黒い馬の話になった。話す者の顔は、何度も見ている。
浅井が出れば、女も出てくる。
松永は絵図から顔を上げた。少し開けた障子の向こうに、奈良の町があった。風に乗って、城の庭で人を呼ぶ声が届いた。もう支度を始めているのであろう。
今度、浅井が出てくる筋はない。松永は浅井の城も、領地も攻めぬ。牢人を討つだけの話に、京の当主が兵を出す理由はなかった。
筋がなければ、出てこない。出てこなければ、女も来ない。
松永は立ち上がった。絵図は広げたままにして、座敷を出た。廊下にいた家臣が道を空け、あとについてきた。松永は、京へ使いを出せとは言わなかった。
◇
奈良坂を越えると、木津の川が朝の光を受けていた。松永は馬を止め、川沿いに並ぶ村を見下ろした。一つの村から、細い煙が上がっていた。
「あれじゃな」
家臣が馬を寄せ、絵図で指した村だと答えた。坂の下では、先に下りた兵が列を整えていた。松永は馬を進めた。千の兵が、坂を越えて続いてきた。
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