【第六章 畿内】第七十三話 初めての参内 裁いてよいものか
一五六六年 早春 京 浅井屋敷
海北綱親は、長政の部屋で訴えの紙を分けていた。
庭の雪が消えていた。松の根を掘り返した黒い土の端から、細い草が出始めていた。
摂津、河内、山城、丹波。正月から国ごとに重ねてきた束の脇へ、その朝、和泉からの一枚を置いた。
長政は摂津の訴えを読んでいた。読み終えた紙は脇へ寄せてある。その山の隣に、和泉の紙が一枚だけ離して置かれていた。
その膝に、初が座っていた。いつ来たのか、海北は見ていない。縁へ出る襖が、子が一人通れるほど開いていた。初は長政の胸にもたれ、読み終えた紙が脇へ移るのを目で追っていた。声は出さない。長政は初を下ろさず、次の紙を初の頭の上で持ち替えた。
「和泉は、初めてか」
「初めてにござりまする」
長政は机の端の一枚を見た。手には取らなかった。
「誰が、浅井へ持っていけと言うた」
「分かりませぬ」
揉め事を持ってこいという触れは、出していない。それでも訴えは届き、国が一つ増えた。
「裁いてよいものかのう」
「浅井は、北近江の家にござりまする」
海北には、ほかに言えることがなかった。摂津にも河内にも、浅井の兵はいない。長政は紙の山を見ていたが、やがて筆を置いた。
「訊いてくる」
長政が抱き上げると、初は黙って袖を掴んだ。長政はそのまま縁へ出て、乳母を呼んだ。
御所へ使いを出した。戻った使いの話では、武家が帝へじかに物を申し上げることはできないという。武家の用は、武家伝奏という役の公家が聞いて、帝へ取り次ぐ。二度目の使いに進物を持たせ、参内する日が決まった。
◇
御所の築地は、崩れたところを板で塞いであった。板の隙間から、草が見えていた。
海北は長政の後ろについて門をくぐった。供は海北一人である。二人とも、初めての参内であった。庭には枯れ草が残り、建物の屋根もところどころ剥げていた。長政の目は、屋根から反った縁の板へ移った。
「これより先は、なりませぬ。ここにて」
案内の者が庭で止まった。長政は草の少ないところを選び、砂の上へ膝をついた。海北も庭の端へ下がった。長政の背と、その向こうの縁が見えた。
誰も出てこなかった。風が庭を渡り、枯れ草を鳴らした。庭には掃いた跡があったが、倒れた草は残っていた。海北は膝の脇の草を避け、縁へ目を戻した。
やがて、冠をつけた公家が縁へ出た。案内の者が、武家伝奏の広橋国光卿であると小声で告げた。広橋の家は、昔からこの役を務めることの多い家であるという。長政が平伏すると、国光は縁に座った。
「北近江の、浅井備前守と申すは、そなたか」
「はい。畿内より訴えが届いておりまする。浅井が裁いてよいものにござりましょうや」
国光は扇を少し開き、閉じた。膝の上で、その先を動かしていた。
「京の近うが騒がしいのは、よろしゅうない。よきに計らわれよ」
海北は長政の背を見た。裁いてよいと言われたのか。何も決めずに返されたのか。長政は、額を下げたまま動かなかった。
「よきに、と申されまするは」
扇が止まった。国光は庭を見下ろした。
「麿が一々、あれをせよ、これをせよと申すものではない。そなたに任せおく、と申しておる」
長政はまた黙った。海北は国光と長政の背を見比べた。枯れ草が鳴っても、長政は顔を上げなかった。
京を静めよということなのか。畿内の訴えを裁けということなのか。海北には、まだ分からなかった。
「畏れながら。京の儀を浅井に申し付けられた、ということにござりまするか」
国光の口が開きかけ、閉じた。扇を持つ手が膝へ下りた。長政は答えを待っていた。
「麿は、任せおくと申したまでじゃ。そなたが、それを何と呼ぶかまでは、麿の知るところではない」
「承りましてござりまする」
長政が砂へ額をつけた。国光は扇を握ったまま、庭を見下ろしていた。否とは言わなかった。
国光が立ち、縁の奥へ消えた。長政はその姿が見えなくなってから身を起こした。海北も立ち、案内の者について門へ向かった。
公家たちの詰める間の前を通ると、障子の向こうから声がした。
「あないに念を押さずとものう」
「あれが無粋やと、わからへんのやろか」
笑い声が重なった。海北は足を止めかけたが、前を行く長政は歩みを変えなかった。
門へ出るところで、長政が止まった。板で塞いだ築地を見ていた。しばらくして、また歩き出した。海北へは何も言わなかった。
◇
屋敷へ戻ると、廊下に市が立っていた。袴に羽織を重ねている。薙刀はない。正月より、頬の色が白かった。
「長政。どこへ行っておったのじゃ」
「御所へ。天子様のおわすところにござりまする」
市が顔を上げた。長政はその前で足を止めた。
「ほう。兄上が申しておったの。京には天子様がおると。わしも、見たいのう」
「なりませぬ」
「なぜじゃ」
長政は答えなかった。市はその顔を見てから、自分の腹へ目を落とした。
「そうか。わしは、隠れておるのであったな」
市は笑った。長政の顔へ目を戻した。
「生まれた後ならばよいじゃろ、連れていけ」
長政は、市の顔を見た。市は返事を待っていた。
「はい」
「兄上に、話したいのじゃ。わしは天子様を見たとな」
市は奥へ歩いていった。正月より遅い歩みであった。廊下の角で壁へ手をつき、すぐに離した。
長政は、市が見えなくなるまで立っていた。
◇
夜、海北が長政の部屋へ行くと、藤吉郎と望月がいた。机には五つの国の訴えが並び、その前に長政が座っていた。
「京の儀を、申し付けられましてござりまする」
藤吉郎が頭を下げた。海北は、御所の庭で見ていた長政の背を思い出した。
「裁いた先のことは、何も申されておりませぬ」
「兵が要りまするな。小谷で、一度申し上げた話にござりまする」
海北はその話を知らなかった。長政を見ると、机の前で藤吉郎の言葉を待っていた。
「郷へ帰らぬ兵を、お作りなされ。銭で養い、一年通して置いておく。書付に従わぬ郷へ出し、従うまで留めまする」
藤吉郎は訴えの束へ目をやった。海北も、摂津と河内の束を見た。
「国衆の兵は、刈り入れには帰しまする。帰せば、その郷は元へ戻りまする」
「兵は、どこから集めまするか」
「三好のもとで主を失うた者がおりまする。あの者たちを雇いなされ。銭と飯と、やることを与えれば、荒らす者が減り、守る者が増えまする」
長政は絵図を引き寄せた。京から川へ指を動かし、三つの流れが合わさるところで止めた。
「淀を浅井が持ちまする。屋敷は、京のままでようござりまする。兵は淀に置きまする。城には磯野を置いて、兵を預けまする」
海北は絵図を覗いた。友通の城が、主のいないまま残っていた。長政の指は、川に沿って摂津へ動いた。
「芥川の城は、いかがにござりまするか」
「空いておりまする。日向守が阿波へ退いてから、番の者も去ったと聞きまする。郷の者が入り込んで、戸を剥がしておる由」
望月が答えた。長政の指は芥川で止まった。
「京の兵を入れて番をさせよ。淀の兵が育ったら、淀から出す」
長政の指は、そこからさらに川を下った。幾筋にも分かれた流れの先、海の手前で止まった。去年の春、市が潮に止められた州である。
「野田と福島は」
「誰もおりませぬ。阿波からの船も、着いておりませぬ」
望月が答えた。長政の指は、州の上から動かなかった。
「ここにも番を置く。阿波の船が、上がれぬように」
海北は、船のことを訊きかけてやめた。浅井には、川へ出す船がない。岸に立つだけの番である。
長政は絵図から顔を上げた。藤吉郎を見た。
「淀へ行ってはいただけませぬか。磯野と共に、兵を鍛えていただきとうござりまする」
藤吉郎はすぐには答えなかった。海北は返事を待った。浅井の兵を鍛えてくれと、織田の者に頼んでいる。
「上様に、京をとれと申しつかっておりまする。とった京を守るのも、そのうちにござりまする」
藤吉郎は長政を見ていた。海北は二人のあいだで黙っていた。
「承りましてござりまする」
藤吉郎が頭を下げた。長政はうなずき、海北へ向き直った。
「小谷の政直を、淀へ移す。鍛冶場ごとじゃ。城が城になってからでよい」
「はっ」
政直は、市の替えの薙刀を打っている。淀へ移せば、市のいる京に近くなる。だが、市の薙刀は倉の中であった。折れることも、当分ない。
海北は、それ以上は訊かなかった。
長政は訴えの束へ目を戻した。和泉からの一枚を手に取り、読み始めた。
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