【第六章 畿内】第七十二話 京の屋敷 文にも、書かぬ
一五六六年 正月 京 浅井屋敷
海北綱親は、書状の束を持って長政の部屋へ行った。
年が明け、長政と市は妙覚寺から東洞院の屋敷へ移っていた。
もとは六角の京屋敷である。三条の通りと東洞院の通りが交わる辻の南にあり、表門は三条の通りに開いている。御所へは、東洞院の通りを北へ半里ほどであった。
築地に囲まれた一町ほどの屋敷で、北の半分が表、南の半分が奥である。表は六角の頃の造りのまま残し、奥だけに手を入れた。長政が使う一間は表の西の端にあり、南の縁の先が奥の庭になる。池のあった庭を、池を埋めて馬を入れられるようにした。松の根を掘り返した跡が、まだ残っていた。
襖は開いていた。長政の机には、国衆の訴えの紙が国ごとに積んである。海北は、摂津と河内へ送る十七通を差し出した。
長政が手を伸ばしたところで、廊下に足音がした。踵が板を速く叩き、市が部屋へ入ってきた。袴にたすきを掛け、薙刀を持っている。額には汗が光っていた。
「長政、また子ができた」
長政の手が、束の手前で止まった。市を見て、口を開いた。言葉は出なかった。海北は、差し出していた束を膝へ戻した。
三度目である。茶々のときも、初のときも、すぐに女中頭が呼ばれ、誰かが廊下を走った。今度は、廊下が小谷から京に変わった。
「薙刀を、お渡しくだされ」
長政が立ち、手を出した。市は渡さず、長政の顔を見ていた。もう一度手が差し出されると、薙刀を横にした。
長政は両手で受けた。市から目を離さないまま、海北へ寄越した。
「倉へ入れて、鍵をかけよ。木のものもじゃ」
「はっ」
海北は書状を脇へ置き、薙刀を受けた。重かった。柄に巻かれた革が、指の形に黒くなっている。
「しかたないのう」
市は腹を一度撫で、長政を見た。
「して、次の戦はいつじゃ」
長政は答えなかった。市は返事を待たず、身を返した。
「秋には出るぞ」
「だれか、市の打掛をもて」
廊下へ声をかけ、長政は届いた打掛を受け取った。市がいらぬと言っても、その肩へかけた。市は払わなかった。
庭に雪が降り始めていた。掘り返された黒い土へ落ち、すぐに消えていく。
廊下には茶々が立っていた。後ろに乳母がいて、眠った初を抱いていた。茶々は市の手を見てから、部屋の中を覗いた。
「ははさま、なぎなたは」
「父上に取られてしもうたわ」
茶々が長政を見た。それから、海北の抱えた薙刀へ目を移した。海北は、柄を持ち直した。
「よい。ほれ、参るぞ」
市が手を出すと、茶々はその指を握った。歩きながら、一度だけ長政を振り返った。茶々は空いた手で市の打掛を掴んだ。市は引かれたところで足を緩め、茶々と並んで奥へ歩いていった。
長政は廊下を見たまま、動かなかった。海北は薙刀を抱え、長政が座るのを待っていた。
◇
夜になって、海北はまた長政の部屋へ呼ばれた。襖は閉まり、灯が一つ置かれていた。訴えの紙は、昼と同じところに積んである。
部屋の隅には、薬売りの姿をした望月がいた。藤吉郎も、机の前に座っていた。織田の兵が尾張へ帰ったあとも京に残り、ときどき屋敷へ来ている。海北はその隣へ座った。
「市のことにござりまする」
「女中頭に訊きましてござりまする。産み月は、夏の終わりごろとのこと。それまではどの戦も、お市様は出られませぬ」
長政は、机の上を見ていた。海北は返事を待ったが、長政は黙っていた。
去年、三好の兵は市が来ると引いた。ほかの者では、そうはいかなかった。
「外に知られますれば」
海北は言葉を切った。隣で、藤吉郎が膝を進めた。
「河内の下野守が、山から下りてまいりましょう。国衆は様子を見はじめまする。浅井の兵が出ても、お市様が来ぬと分かっておれば、誰も引きませぬ」
長政は顔を上げた。藤吉郎は、長政を見て続けた。
「浅井様。隠しなされ。お市様がどこにおられるのか、なぜ出てこられぬのか、誰にも分からぬようになされませ」
「出てくるやもしれぬと思えば、下野守も下りては来られませぬか」
「左様にござりまする」
長政はしばらく藤吉郎を見ていた。それから、摂津の束へ手を置いた。
「隠しまする。知る者を、決めまする」
長政は指を折った。海北はその手を見ていた。
「わたし。海北。市のそばの者。女中頭と、乳母と、産婆」
長政の指が止まった。海北は、まだ名を呼ばれていない二人を見た。
「藤吉郎殿。それと、望月殿。ほかには言いませぬ。家中にも言いませぬ」
「北近江へは」
「文にも、書かぬ」
海北は次を訊く前に、藤吉郎を見た。藤吉郎は長政へ顔を向けたままであった。
「清洲へは」
「書かぬ」
長政はすぐに答えた。織田の者が、主に知らせぬと決まったことを、黙って聞いていた。
「望月殿。漏れを、止めていただきとうござりまする」
「承った。外へ出るようなら、出る前に止め申す」
望月は、誰をどこへ置くかは言わなかった。もう置いてあるのかどうかも言わない。海北も訊かず、長政へ向き直った。
「お市様ご自身が、外へ出られることは」
「市は、京の町を歩いたことがない。来てからずっと、馬の上か、寺の空き地か、この庭じゃ」
海北は長政を見ていた。藤吉郎が顔を上げ、長政を見た。
「なれど、稽古ができぬとなれば、町へ出られるやもしれませぬ」
「・・・そうでござりまするな」
長政はそれだけ言った。海北は、昼に預かった薙刀を思った。木のものも、倉へ入れてある。
「お市様には、何と申し上げまするか」
長政は答えなかった。海北は待った。藤吉郎も望月も、口を開かなかった。灯の芯が小さく鳴った。
屋敷から出るな、と言うことになる。子が生まれるまで、人の前へ出るな、と。
初を産んだ日も、市は褥から立とうとした。海北は机の前を見た。長政は、まだ答えなかった。
望月が顔を上げ、廊下を見た。海北には何も聞こえなかったが、やがて速い足音が近づいてきた。
襖が開いた。市が立っていた。薙刀は持っていない。三人が振り返る中、長政だけは、襖が開く前からそちらを向いていた。
「長政。次の戦はいつじゃ。まだ畿内は取っておらぬのであろう」
市は机の脇へ来た。立ったまま、長政を見下ろしている。
「子が生まれるまでは、出られませぬ」
「なぜじゃ。わしはこの通り出られるぞ」
「なりませぬ。ややこに障りまする」
「わしは出る」
長政は答えなかった。藤吉郎が口を開きかけると、長政が手を上げた。藤吉郎は口を閉じ、膝の上へ手を戻した。
「市。子が生まれるまで、隠れていてくださりませ」
海北は息を止めた。市の声が大きくなった。
「なぜ、わしが隠れねばならぬのじゃ。敵がおるのになぜじゃ。わしが出ねば、誰が出るのじゃ」
長政は市を見上げていた。市も目を離さず、もう一度言った。
「長政、おぬし、わしに隠れておれと申すか」
「申しまする」
市が口を閉じた。海北は膝の上の手へ目を落とした。顔を上げられなかった。庭の方で、風が木を鳴らした。
「・・・そうか」
海北が顔を上げると、市は笑っていた。机の上の紙から、海北へ目を移した。藤吉郎を見て、隅の望月も見た。
「みな、そんなにわしが怖いのじゃな」
誰も返さなかった。市は、長政へ向き直った。
「わしがおるか、おらぬか分からねば、出てこられぬということじゃな」
「はい」
長政が答えると、市は顎を上げた。海北は膝に置いた手を緩めた。
「兄上には」
「知らせませぬ」
「うむ。それでよい。兄上も、いきなりのほうが驚くであろう」
市の目が細くなった。長政は、机の前に座ったまま見上げていた。
「あいわかった。長政の策に乗ってやる」
市は身を返した。敷居の手前で、一度だけ振り返った。
「うまくやれ」
「はい」
長政が頭を下げた。市は襖を開けて出ていった。閉めなかった。奥へ遠ざかる足音が、途中で速くなった。
海北は開いた襖を見ていた。長政は頭を上げず、藤吉郎も動かなかった。やがて望月が立ち、襖を閉めた。
長政が机へ向き直った。摂津の束に目を落としたが、手は動かなかった。
奥から、市の声がした。
「では、せめて薙刀を振るのはよかろう」
「なりませぬ」
「なぜじゃ。ひまではないか」
女中頭の答えは聞こえなかった。市の声だけが、はっきり届いた。
「つまらぬの」
小さい声がした。茶々である。何を言ったのかは聞き取れなかったが、市と茶々の笑い声が続いた。
長政が顔を上げた。望月も藤吉郎も、同じ方を見ていた。
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