【第五章 三好】第七十一話 京へ戻る 猿のくせに
◇
三好長逸は、船へ渡す板の上で振り返った。
黒い馬が、船着き場へ入ってきていた。輿からここまでの道に、もう馬を止める兵はいない。長逸は板を踏む足を速めた。板が鳴り、船が揺れた。
背後では、女の声が繰り返されていた。
偽将軍の首、討ち取ったり。
岸を走る兵も、声を聞いて輿を振り返った。長逸は偽ではないと叫びかけたが、声は出なかった。
あれは、偽ではない。義栄は阿波から船で渡ってきた。野田で輿に移し、京へ運んでいた。京に入れば宣下が出る。将軍の名で諸家を動かせる。
そうなるはずであった。
友通から後詰めを請う使いが来た夜、長逸は返事を出さなかった。義栄を迎える使いだけを、野田の湊へ出した。友通が浅井を淀に留めるあいだに、京へ入るつもりであった。その淀から、黒い馬が来ている。
「船を出せ」
長逸が船へ足を移すと、側の者が渡し板を外した。櫂が水を掻く。船と岸のあいだに、隙間ができた。
黒い馬が、船着き場の端へ来た。長逸は、船縁を掴んだまま見ていた。馬上の女は、薙刀を立てている。春にも、船で逃げる長逸を岸から見ていた。
輿は、道の真ん中に残っていた。守っていた者は、もう誰も立っていない。簾は上がり、脇の土に白い烏帽子が落ちていた。
岸から、乗り遅れた兵が船を呼んだ。長逸もその声を聞いた。船の者は、櫂を止めなかった。兵は水へ踏み込んだが、船には届かなかった。
長逸は船縁から手を離そうとした。指が開かなかった。櫂の音が続き、岸が遠くなっていく。
義栄を、京に入れられなかった。
宣下は、出ない。
◇
三田村国定は、船着き場の端で、市の左に馬を止めていた。
長逸の船が離れていく。船と岸のあいだには、もう馬では越えられない水があった。
「また逃げよったわ。女々しいのう」
市は薙刀を立てたまま、船が流れに乗るのを見ていた。黒い馬が鼻を鳴らした。長逸が船の上からこちらを見ている。市は馬の首を返した。
輿のところには、磯野が来ていた。細い道を後ろから抜けてきたところである。馬を降り、倒れた男を見てから、首を預けられた兵を見た。顔色が変わった。
担ぎ手が四人、道の端に残っていた。磯野はその一人の前で膝をつき、何か訊いた。担ぎ手は顔を伏せたまま答えた。磯野がもう一度訊くと、男は輿を指した。
輿のまわりには浅井の兵も集まっていた。大野木が上げた首を見て、偽将軍を討ったと言い合っている。磯野が戻るのを見て、三田村は兵を脇へ退かせた。
戻ってきた市の馬の前へ、磯野が歩いてきた。
「お市様。あの輿の中におった者にござる」
「なんじゃ」
「騙りではござりませぬ。足利義栄にござる。まだ将軍ではござりませぬが、三好が立てようとしておりました」
三田村は、輿を見た。男が名乗りかけたとき、確かに足利と聞こえた。大野木も首を落としたあとで、将軍の名を騙る者と呼んだ。
「将軍にか」
市が磯野を見た。磯野は頭を下げた。
「はっ。詳しくは殿に報せまする」
市は輿へ目を向けた。烏帽子が、少し離れた土の上に転がっている。三田村は市の背を見ていた。市が、磯野へ向き直る。
「よくわからんが、なにゆえ三好が将軍を立てるのじゃ」
声が、山崎の道に響いた。三田村は、市がこれほどの声を出すのを聞いたことがなかった。
「勝手に決めてよいものでもなかろうが。なにを考えておるのじゃ」
市は、薙刀の石突きを一度だけ地へ突いた。三田村はその顔を見た。市は三好に怒っていた。倒れている男のことは、一度も言わなかった。
一五六五年 秋 京 妙覚寺
蒲生賢秀は、妙覚寺の門をくぐった。
京へ戻って、十日ほどが経っていた。浅井が京を空けたのは、わずか数日であった。そのあいだ、三好の兵は一人も町に入れなかった。山崎から戻る道で、先に京へ走らせた物見がそう報せた。町の木戸は、浅井が出たときのまま開いていた。
京を取り返したのではない。三好が入る前に、間に合っただけであった。
浅井は、また妙覚寺を宿所に借りていた。国衆の兵は刈り入れのため郷へ帰る。蒲生の兵も、明日には日野へ発つ。織田から来た兵も帰るが、藤吉郎は残るという。
摂津の野田と福島には、もう浅井の兵はいない。長逸は船で阿波の方へ去った。河内には宗渭が残ったが、出てこない。淀では、友通が討たれた。兵がいなくなれば、その土地から浅井に挨拶に来る者もいなくなった。
今、浅井が持っているのは、京だけである。
門の内側には、帰る兵の荷が積まれていた。槍を束ねた脇で、蒲生の家の者が道中の糧を受け取っている。織田から来た兵も、旗を巻いていた。城南宮で交じり合った旗が、一つずつ郷へ帰っていく。
境内の空き地で、市が薙刀を振っていた。
春に京へ入ってから、毎朝振っていた場所である。砂を踏み、上から下ろす。返して、横へ払う。蒲生は脇を通りながら見た。寺の僧は足を止めず、塔頭の裏へ回っていった。
蒲生が山崎の細い道へ入ったときには、戦は終わっていた。輿の脇に烏帽子が落ち、市は磯野と話していた。三好が義栄を将軍に立てようとしたと聞き、市が怒った声は、後ろにいた蒲生のところまで届いた。
蒲生は客殿へ上がった。書院では長政が、帰す兵の数と道を書いた書付を一枚ずつ見ていた。ときどき顔を上げ、縁の先へ目をやる。市が薙刀を振っていた。
隅に藤吉郎もいた。蒲生は敷居の内で膝をついた。
「殿。明日、兵を連れて日野へ帰りまする」
「うむ。この一年、ようやってくれた。春には、また頼む」
「はっ」
蒲生は頭を下げた。春、大津の社で初めて浅井の陣に加わったときは、名を呼ばれても、答えたのは家の者であった。浅井と蒲生の兵は、空いた道を挟んで座っていた。城南宮では隣り合い、山崎では同じ行列へ向かった。今は長政の書院で、直接声をかけられている。
長政の手元には、日野へ帰す者の書付があった。負傷して歩けない者の名に、印がついている。夏に河内で傷を負った兵もいた。その名の脇には、帰り道に使う車のことまで書き込まれていた。
縁の方で足音がした。薙刀の音は、いつのまにか止んでいた。市が書院へ入ってきた。額には汗が光り、薙刀を右手に持っている。
市は長政と藤吉郎を見て、蒲生にも目を向けた。知った顔を見たときの目であった。それから机の脇へ行き、書付の束を見下ろした。
「結局、京しかとれなんだのう」
不服な声であった。長政は返事をしなかった。藤吉郎が膝を進めた。
「お市様。京が、重うござりまする」
「猿のくせに、わしに物を言うようになったのう。まあよい、どういうことじゃ」
藤吉郎は、市の顔を見て答えた。
「京にあるのは、名にござる。畿内の者は、誰が強いかだけでは動きませぬ。誰が正しいかを見まする」
蒲生は、六角の家にいた頃を思った。守護という名があった。呼びかけに応じぬ家が増えても、その名があるうちは、六角の家は残っていた。
「その正しいを、決めるのが京にござる」
市は、藤吉郎を見ていた。長政が机の前でうなずいた。蒲生は、長政の目が藤吉郎ではなく市の方へ向いているのを見た。
「京というところは、めんどうなところじゃのう」
市は、それ以上は訊かなかった。書付にも手を伸ばさず、薙刀を抱えたまま長政の机の脇に立っていた。
蒲生が長政を見ると、長政はもう書付を見ていなかった。市の横顔を見ていた。
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