【第五章 三好】第六十九話 淀の合戦 ぬしは後ろにおれ
一五六五年 秋 山城 淀
岩成友通は、淀の城の櫓から、北に土埃を見た。
目を凝らすと、野の端まで土埃が広がり、その下を浅井の旗が下りてくる。京も摂津も河内も空け、鳥羽に集めた軍勢であった。
友通は城を見下ろした。川に挟まれた狭い城には、二千の半分しか入らない。残りを預けようと、昨日から国衆の屋敷へ使いを出していた。
今朝、使いが戻った。どの門も閉じ、三好の旗も浅井の旗もなかったという。
一つも、開かなかった。
友通は家々を責められなかった。どちらが残るかを見てから動く。だが今は、城に入れない兵の行き場がない。
西へ退けば山城を失う。二千を野に並べて、受けるしかなかった。
櫓を下りながら、友通は西を見た。山崎の向こうには長逸がいる。昨夜、後詰めを頼んだ。使いが着いていれば、今日中にも来られる。
道にはまだ、土埃も旗も見えなかった。
友通は城の北に兵を並べた。西は桂川、東は巨椋池。田の稲は、刈り入れを待っていた。
山科では黒い馬と当たる前に退いた。長逸の命である。明け渡した京は、摂津で兵を揃えれば取り返せるはずであった。
京は、取り返せなかった。夏のあいだ浅井の兵を削った。このまま秋を越せば、国衆も田へ帰る。それまで待てばよかった。
今、浅井は全軍をまとめて友通の前にいた。
向かいの槍の列には、鳥羽で見なかった紋も、織田の旗もあった。穂先は、旗をまたいで揃っていた。
夏には鳥羽の浅井を押しては退き、市の騎馬が来る前に淀へ戻った。翌日にはまた出た。今、向かいに延びる列は、あのときよりずっと長い。
黒い馬が、列の後ろにいた。夏は当たる前に兵を引けた。だが今日は二千を野へ出し、城に戻せるのは半分だけである。
両軍は、槍の届かないところで向かい合った。友通は西を見た。道に土埃はなかった。
◇
大野木秀俊は、市の右にいた。
野の向こうには三好の兵が並び、その後ろに淀の城が見える。市の左には三田村、少し後ろには長政が馬を置いていた。
陣幕はさらに後ろにあり、海北と伝令が待っていた。藤吉郎は、長政の馬の脇にいた。長政は陣幕の方を見ず、市を見ていた。
長政が馬を寄せてきた。大野木は、春の野田でも長政が市の後ろへ出たのを見ている。
市が長政を振り返った。
「長政」
「はい」
長政は、黒い馬の斜め後ろへ馬を入れた。
「ぬしは後ろにおれ」
「市のそばにおりまする」
市は、並ぶ旗を薙刀で示した。
「何を言うておる。まわりを見てみよ。ぬしは大将じゃろ」
長政は、旗へ目を向けた。北近江の旗の隣には蒲生の旗が立ち、その先には織田の旗もあった。
「大将は後ろででーんとふんぞり返っておるもんじゃろう。のう、猿」
藤吉郎は長政の馬が動くたび、そちらを見ていた。市と目が合うと、手綱を持ち替えた。
「はっ。さようにござりまする」
市は、三好の旗へ目を戻した。
「わしが三好を蹴散らしてくれるわ。ぬしはぬしの役をせい」
長政が藤吉郎を見ると、藤吉郎は兵の列へ目を移した。長政はしばらく黙ってから、馬を陣幕へ向けた。
「・・・わかりまする」
市は、薙刀を握り直した。
「長政、取ってくる」
「お気をつけて」
長政は陣幕へ戻っていった。控えていた伝令が寄った。市はその背を追わず、味方の槍の列へ馬を向けた。
市が、前列に沿って駆ける。
北近江の旗の下で声が上がった。薙刀の刃が日に光り、蒲生、永原、目賀田の旗のあいだを移っていく。兵が槍を持ち上げた。
織田の旗の下でも、刃が光った。市は速さを落とさず、薙刀を掲げる。織田の兵も名を呼んだ。
大野木と三田村が追った。兵は市を見送ると、前へ槍を構えた。
市が列の中ほどへ戻ると、陣幕から伝令が走り、槍の列が進んだ。
三好の前列が押された。織田の兵が右を押すと、三好の中央から兵が寄った。空いたところへ蒲生と北近江の兵が進む。
三好の旗のあいだに、人のいない筋ができた。その先に高い旗が見える。三田村が槍で指した。
「あの旗に、大将がおりまする」
「あれじゃな」
市が、馬の腹を蹴る。
三田村と大野木が左右につき、騎馬が続く。
蒲生の兵が槍を押さえる。
味方の列が左右へ開く。
市が抜ける。
大野木たちも後に続く。
背後では槍の列が閉じる。
市が、三好の兵のあいだへ入る。
三好の兵は、隣の旗の方を見ていなかった。市が間を抜けても、片方の隊は浅井の槍と向き合っていた。
乾いた田の土が、蹄の下から跳ねる。
前に立った兵が、槍を突き出した。
市が、薙刀の柄で穂先を払う。
穂先は、馬の脇へ流れた。
市が、その兵の脇を抜ける。
大野木が右を払う。
三田村が左を払う。
市が、二人のあいだを駆ける。
次の旗に迫る。
旗を守る兵が槍をそろえた。
市がその前を横へ抜ける。
兵が向きを変えたところで馬の首を返す。
開いた脇を通る。
すぐに、高い旗が近づく。
旗の下の兵が下がった。
市は追わず、その奥へ向かう。
大野木が、市に向いた槍を払う。
高い旗の下に馬上の武者がいた。武者を守る兵は、浅井の槍を受けていた。
武者が、山崎へ続く道を振り向く。
市が迫る。
大野木が右の兵を払う。
市はもう武者の前に迫る。
武者が槍を取った。
市は速さを落とさない。
武者の前へ入る。
「覚悟せい」
槍が突き出される。
市が馬を横へ寄せる。
武者の穂先が外れた。
薙刀が下りる。
武者が鞍から落ちた。
市が馬を止め、大野木は倒れた武者の前へ出た。
大野木は馬を降り、槍を野村へ渡した。三田村は馬上で周囲を見張る。騎馬の者も二人降り、武者のところへ走った。
武者はまだ土を掻いていた。大野木が腕を、一人が肩を押さえる。もう一人が仕留め、大野木は腰の小刀を抜いた。
市は馬上で動かず、大野木の手元を見ていた。三好の兵が寄りかけると、薙刀を向ける。兵は足を止めた。
大野木が小刀を当てる。首は一度では落ちず、刃を抜いてもう一度入れた。両手で持ち上げ、そばの蒲生の兵へ訊いた。
「これは誰じゃ」
「岩成主税助にござる。京を預かっておった三好の将にござる」
大野木は市を見上げた。山科では退かれ、野田では船に乗られた大将が、今日はここにいる。
「お市様、敵が大将、岩成主税助、討ち取ったり!」
市が馬の首を返した。大野木の手元を見た。
「岩成とは三好の大将か」
「はっ」
市が笑った。
「三好の大将、討ち取ったり」
市が薙刀を頭上へ上げる。刃に日が当たって光った。
「勝鬨をあげよ」
「おおー」
声は、市の騎馬から上がった。蒲生の槍の列からも上がる。永原、目賀田、北近江の旗の下で槍が持ち上がり、織田の兵も声を重ねた。
大野木は首を布で包み、脇の者へ預けた。野村から槍を受け取り、馬へ上がる。ほかの者も、次々に鞍へ戻った。市は皆が揃うまで動かなかった。
市が馬を走らせた。大野木と三田村、騎馬の者たちも後を追う。
市は蒲生の列の前を駆けた。
「三好の大将、討ち取ったり」
蒲生の兵が槍を上げた。
市はそのまま北近江の兵の前を抜け、永原と目賀田の旗へ向かう。首を預けた者も、布包みを掲げて続いた。
「三好の大将、討ち取ったり」
今度は永原の兵が叫び返した。目賀田の旗の下からも声が上がる。
薙刀の刃が、旗から旗へ光を返した。織田の兵も前へ出る。どの列からも勝鬨が上がり、三好の兵は市の行く先で後ろを向いた。
三好の高い旗が倒れた。前列が下がると、隣の隊も退いた。旗を捨てて走る者が出た。大野木が市に続いて野を見渡すと、三好は総崩れとなっていた。
市は野の端で馬を返し、まだ動く三好の旗へ向かった。大野木たちも続く。
薙刀は、淀の城へ向けて上がったままであった。
◇
長政は、陣幕の前で野を見ていた。
遠くで薙刀の刃が光った。蒲生の旗の前を走り、北近江の旗の向こうへ消え、織田の旗の下でまた光る。黒い馬が兵に隠れても、刃を追えば市の居場所が分かった。
「三好の大将、討ち取ったり」
声は一か所からではなかった。旗の下から次の旗の下へ、同じ声が広がっていく。
「取ったか」
長政が呟いたとき、山崎へ出していた物見が陣幕へ駆け込んだ。馬を降り、長政の前で膝をつく。
「摂津の三好勢が山崎の道に入りました。京へ向かっておりまする」
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