【第五章 三好】第六十七話 城南宮の総勢 これだけは言うておく
一五六五年 秋 山城 鳥羽
蒲生賢秀は、城南宮の前の野に、自分の家の旗を立てていた。
兵の集まった野の、中ほどである。河内から、三日かけて来た。河内の陣は、空けてきた。一人も残していない。永原も目賀田も、同じであった。
摂津の兵も、来ていた。藤吉郎の陣も、空になっていると聞いた。京も、空けてきたという。
長政が、京を引き払った。妙覚寺に置いていた兵も、町に散らしていた兵も、一人残らず連れて出てきた。海北も、ここにいた。京には、今、浅井の兵が一人もいない。
春から、長政は京を空けなかった。京を空けられぬ、と言い続けていた。その京を、捨ててきた。夏の終わりに、市が言ったのだと聞いた。京など、また取ればよい、と。
長政は、それをやった。誰も、止めなかった。
蒲生は、野を見渡した。負ければ、全部を失う。京も、摂津も、河内も、山城も、全部である。持ち場は、もう一つもない。ここにいる兵が、浅井のすべてであった。
織田から来た兵も、ここにいた。この戦が済めば、帰ると聞いていた。国衆の兵も、刈り入れを前に集められていた。これが、今年の最後である。
蒲生は、自分の旗のまわりを見た。右隣に、浅井の旗が立っていた。北近江の家の旗である。その向こうに、目賀田の旗があった。目賀田の旗の向こうに、また浅井の旗があった。旗ごとに座る場所が、割ってあった。旗の並びは、長政が自ら決めたと聞いた。
春に大津の社で座ったときは、参道を挟んで、右に浅井、左に旧六角の兵がいた。春にこの野へ集まったときも、北近江の兵が前で、旧六角の兵が後ろであった。並び方は違っても、互いの旗は混ざらなかった。
今は、境がなかった。
蒲生の家の兵の隣に、浅井の兵が座っていた。浅井の兵の一人が、蒲生の家の兵に何か言った。言われた兵が、笑った。蒲生は、それを見ていた。見て、社の方へ目を移した。
社が、違って見えた。
春に、この野で見た社は、荒れていた。鳥居が傾いていて、朱が剥げていた。屋根に草が生えて、軒が一か所落ちていた。
今、鳥居はまっすぐに立ち、朱が新しかった。拝殿の古い柱のあいだには、白い木肌が見えた。落ちていた軒も直っている。
本殿の屋根には、まだ草が残っていた。直したのは、人が集まる拝殿と鳥居、その前の地面であった。
蒲生は、春のことを思い出していた。春に、この野に集まったとき、市は社を見て、ぼろぼろではないか、と言った。長政は、その後で馬を降りて、社の脇に出てきた年寄りのところへ行った。身をかがめて、何か話していた。懐から包みを出して、年寄りに渡していた。
蒲生は、旧六角の列の中から、それを見ていた。何を話していたのかは、聞こえなかった。聞こえなかったが、今、目の前に、直った鳥居があった。
社の前に、長政がいた。長政は、社に参っていた。手水を使った。直った拝殿の前に立って、二度頭を下げた。二度手を打った。もう一度頭を下げた。社を守る年寄りが、脇に控えていた。春の年寄りであった。年寄りは、長政が参るあいだ、ずっと頭を下げていた。
作法どおりであった。
長政は、参り終えて、拝殿の前から下がった。京へ続く道を見た。
道に土埃が上がった。黒い馬が、先頭にいた。市であった。後ろに、市の騎馬が続いていた。夏に減った騎馬は、減ったままであった。
市の馬が、野に入ってきた。入ってきたところから、兵が立った。誰も、立てとは言っていなかった。道に近い兵が立ち、その隣が立ち、その後ろが立った。立つのが、野の奥へ伝わっていった。
浅井の兵も、旧六角の兵も、同じように立っていた。蒲生の前の兵が、立った。隣の浅井の兵も、立った。
蒲生も、立った。立つのに、手をつかなかった。
市の馬は、野の真ん中を抜けて、社の前まで来た。鳥居の前で、止まった。降りなかった。
市は、馬の上から社を見た。鳥居の新しい朱を上から下まで見て、その奥の拝殿へ目を移した。古い柱のあいだに白い木肌がある。市の目が、少し丸くなった。
「なんじゃ、京にもきちんとした社があるんじゃな」
市は、そう言った。感心した声であった。
蒲生は、長政を見た。長政は、拝殿の脇に立っていた。市を見ていた。何も言わなかった。
年寄りが、長政の方を見た。何か言いかけた。長政が、年寄りの方へ、小さく首を振った。年寄りは、口を閉じて、頭を下げた。
市は、それを見ていなかった。直った社を見て、一度うなずいた。それから馬の首を返し、野へ向き直った。
野の端から端まで、兵が立っていた。浅井の旗と、旧六角の旗が、交じって立っていた。織田の旗も、その中にあった。
「これだけは言うておく。浅井だの六角だの、ごちゃごちゃとうっとうしい」
市の声が止んでも、野から声は上がらなかった。蒲生の旗の下で、先ほど隣の兵と笑い合っていた者が、市を見ている。その隣の兵も、同じ方を見ていた。
蒲生は市を見た。春には、二つの軍勢のあいだに空きがあった。今は、その場所にも兵が立っている。
「みな、わしの大事な者たちじゃと心得よ」
河内の陣では、蒲生たち三人だけに「大事な家来じゃ」と言った。今は野に立つ兵みなへ言っている。蒲生が隣の兵を見ると、その兵も市から目を離さずにいた。
「これより、みなで三好を討つ」
声が、野の端まで通った。
「おおー」
声が上がった。蒲生の家の兵も、隣の兵も上げた。別の声が重なると、どの旗の下から上がった声か分からなくなった。野の端まで、声が広がっていく。
蒲生も、上げていた。春に、大津の社で、蒲生は声を上げなかった。口が開いていただけであった。
市は、立ち上がった兵のあいだを見回した。それから社へ馬の首を返した。鳥居の奥へ向けて、言った。
「勝ったら、また来る」
拝まなかった。頭も、下げなかった。市は長政を見た。
「長政、行くぞ」
市の馬が、走り出した。鳥居の前から、野の真ん中を抜けて、淀へ続く道へ出た。三田村と大野木が、その左右についた。騎馬が、後に続いた。
「みなも続け」
長政が言った。言って、自分の馬の方へ走った。
野が、動いた。入り交じって立つ旗が、同じ方へ動いた。織田から来た旗も、その後に続く。
蒲生は、自分の馬に跨った。跨って、馬の腹を蹴った。永原の旗を過ぎ、目賀田の旗の脇を抜けた。前の方に、長政の馬の背中が見えた。
蒲生は、長政の馬の横に並んだ。
「殿」
長政が、横を見た。
「せっかく建て直されたのに、お市様には申されぬのか」
蒲生は、そう言った。言ってから、自分が当主に向かって何を言っているのかに、気づいた。
春の大津では、この男が馬へ走っていくのを、野の中から見ていた。
長政は、前を見た。前を、市の馬が駆けていた。
「それでよい」
「行くぞ」
長政の馬が、少し前へ出た。蒲生は、その背中を見ていた。
「・・・さようでござるか」
蒲生は、そう言った。それ以上は、訊かなかった。
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