↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第五章 三好】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/84

【第五章 三好】第六十六話 鳥羽の苦戦 なぜ勝てぬのじゃ

一五六五年 晩夏  山城 鳥羽



 磯野員昌は、鳥羽の陣を朝のうちに出た。


 夏が、終わりかけていた。昨日、鳥羽の南の村で岩成の兵を押し返した。だが、陣へ帰った兵のうち、何人もが槍を持てなくなっていた。


 前列にいた兵の一人は、今朝も槍を握ったまま寝ていた。膝に巻いた布から血が滲んでいる。磯野が通ると、肘をついて起きようとした。立てなかった。


「代わりは決まったか」


 磯野が脇の者に訊くと、相手は首を横に振った。磯野は兵に休めと言い、その場を離れた。負傷した者はほかにもいる。前列のどこへ誰を入れるか決まらぬまま、馬を飛ばして京へ向かった。


 昼前に妙覚寺へ着いた。門で馬を降りた磯野の足には、まだ鳥羽の土がついていた。


 境内の空き地に、市の姿はない。摂津へ出ている。砂には、薙刀を振るたびに踏んだ足跡が、まだ重なっていた。足音のしない空き地を横切って、磯野は客殿へ上がった。


 書院では、長政が机に向かっていた。書付が何枚か広げられている。長政が一枚を手に取るあいだに、磯野は敷居の内で膝をついた。


「山城の岩成が、淀から北へ出てまいりました。昨日、鳥羽の南の村で当たり、押し返しはいたしたが、こちらも手負いが出ておりまする」


 村へ出た岩成の兵は、前より多かった。淀の城へ戻っても、また出てくる。磯野の一千は、負傷した兵を帰すたびに減っていた。


 昨日、退いていく岩成の旗を磯野は見た。倒れた者を連れて、列を崩さず淀へ戻っていった。こちらも旗は守った。だが、鳥羽へ戻る兵の列には、槍を杖にして歩く者が何人もいた。次に同じ旗が現れたら、昨日と同じ前列は組めない。


「千では、次は保ちませぬ」


 長政は取次を呼び、薬と車を鳥羽へやるように命じた。歩けぬ兵は京へ運ぶ。取次は廊下へ出ていった。磯野は、今朝、槍を握ったまま寝ていた兵を思った。あの者も運ばれてくるだろう。


 長政は持っていた書付を机へ置いた。磯野は返事を待った。鳥羽に兵を足すか、下がらせるか。陣へ戻る前に、そのどちらかは聞きたかった。長政は次の書付を取らなかった。


 この春、三好が摂津に集まったとき、長政は兵を連れて出た。今は鳥羽へ兵を足せば、摂津か河内が薄くなる。京から兵を出しても、京へ上る道を誰が守るか決めねばならない。


 磯野は書院の端へ下がった。廊下を足音が近づいてくる。海北が、帳面を抱えて入ってきた。


「摂津から、使いがまいりました」


 海北は、使いが持ち帰った書付を長政の前へ置いた。


「日向守の船が、江口へ上がりました」


「藤吉郎殿は」


「兵を出しました。着く前に、船は離れておりまする」


 長政は書付の下の方へ目を移した。磯野にも、江口の横へ書き足された別の村の名が見えた。墨の色が違っていた。


「鳥飼にも上がったのか」


「はっ。江口へ走った兵は、まだ戻っておりませぬ」


 江口も鳥飼も、淀川の岸の村である。藤吉郎の陣から川を下ったところにあり、鳥飼の方が陣に近い。


「船は追えぬか」


 長政が訊いた。海北は、机の書付を指で押さえた。


「川へ出す船がござりませぬ」


 長政が摂津の書付から顔を上げると、海北は次の紙を開いた。


「河内では、下野守にまた野を取られました」


「蒲生たちは」


「三人とも、同じ陣から出ておりまする。明日も出ると、蒲生殿から報せが来ておりまする」


 磯野は海北の紙を見た。蒲生たちの陣では、市が来た日に三好を押し返したと聞いている。市が摂津へ去ってからも、三人の旗は並んで出ている。それでも押し返されていた。三人が一緒に動いても、足りない兵は増えない。


「それと、刈り入れが近うござりまする」


 海北が帳面を開いた。兵を出している家の名が、北近江も南近江も続いている。幾つかの行には、海北が小さな印をつけていた。


「北近江も南近江も、国衆の兵を田へ帰さねばなりませぬ。帰さねば、来年の米が足りませぬ。帰せば、三方と京のすべてには兵を置けませぬ」


 海北は帳面を閉じ、磯野の隣へ下がった。磯野の陣からは、今朝も手負いを前列から外したばかりである。刈り入れでさらに兵を帰せば、まだ槍を持てる者も列から抜かねばならない。


 山城、摂津、河内。どこも兵が足りていない。磯野は、自分の鳥羽の陣を思い出した。昨夜も、一人が熱を出した。槍を持って並べる者は、今朝また減っていた。


 書院に蝉の声が届いた。本堂の方で一匹が鳴き、止む。誰も次の下知を口にしなかった。


 そこへ、寺の門から蹄の音がした。


 磯野は縁へ目をやった。黒い馬を先頭に、騎馬が境内へ入ってくる。市である。三田村と大野木が後ろにつき、野村が馬を引いていた。


 京を出た春より、騎馬は少なかった。野村が引く馬には、乗り手のない鞍がいくつもついていた。鐙が揺れて、馬の腹へ当たっている。市の袴の裾にも泥がつき、顔には埃が残っていた。


 市が空き地で馬を降りると、黒い馬が鼻を寄せた。市はその鼻先を一度撫で、手綱を野村に渡した。薙刀を持って客殿へ向かう。誰かが水を持ってきたが、市は見向きもせずに縁へ上がった。


 敷居をまたぎ、長政の前に立つ。


「なぜ負けておる。なぜ兵が減っておるのじゃ」


 長政が顔を上げた。


「三方に分けて守っておりまする。京を空けられませぬ」


「では、なぜ勝てぬのじゃ」


 長政の口が開きかけて、閉じた。磯野は隣の海北を見た。海北も長政を見ている。


「・・・市のおらぬところが、負けておりまする」


 市は長政を見下ろした。眉を寄せたまま、摂津から持ってきた薙刀の石突きを床へ置いた。


「京がそんなに大事なのか」


「・・・はい」


 長政は、次を言わなかった。磯野は膝を進めた。


「鳥羽から引けば、岩成が京へ上がりまする」


 市が磯野を見た。鳥羽で昨日並んだ兵の顔が浮かぶ。あの兵を京へ戻せば、岩成の通る道には誰もいなくなる。だが、鳥羽へ残しても、次の攻めに保つかどうかは分からなかった。


「京など、また取ればよいではないか」


 海北が顔を上げた。磯野は、市が目を逸らさないのを見た。長政も市を見ている。書院の外では、野村が黒い馬を連れて空き地を横切っていた。


 市は机の上に広げられた書付を見た。山城、摂津、河内から届いた三通が、離れて置いてある。薙刀を脇に抱え直して、机の前へ来た。


「分けるから、どこも弱いのじゃ。一つにまとめればよいのじゃ」


 市は手を伸ばし、三通を重ねた。ばらばらだった紙の端が揃った。


「一番弱いところを、みなで一気に突けばよいだけのことであろうが」


 それだけ言うと、市は薙刀を肩に担いで書院を出た。縁を歩きながら、騎馬の者の名を呼んだ。呼ばれた者が塔頭の方から走ってくる。市は立ち止まらず、何か短く言いつけて、また別の者を呼んだ。


 磯野は、重ねられた書付を見た。三方の兵をまとめれば、鳥羽の一千も動く。自分の陣を引き払う下知が来るのか、まだ分からなかった。


「鳥羽へ戻り申す」


 長政から返事はなかった。磯野は頭を下げ、書院を出た。廊下の角で一度だけ振り返る。長政は市が重ねた三通を前に、まだ座っていた。

面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。