【第五章 三好】第六十六話 鳥羽の苦戦 なぜ勝てぬのじゃ
一五六五年 晩夏 山城 鳥羽
磯野員昌は、鳥羽の陣を朝のうちに出た。
夏が、終わりかけていた。昨日、鳥羽の南の村で岩成の兵を押し返した。だが、陣へ帰った兵のうち、何人もが槍を持てなくなっていた。
前列にいた兵の一人は、今朝も槍を握ったまま寝ていた。膝に巻いた布から血が滲んでいる。磯野が通ると、肘をついて起きようとした。立てなかった。
「代わりは決まったか」
磯野が脇の者に訊くと、相手は首を横に振った。磯野は兵に休めと言い、その場を離れた。負傷した者はほかにもいる。前列のどこへ誰を入れるか決まらぬまま、馬を飛ばして京へ向かった。
昼前に妙覚寺へ着いた。門で馬を降りた磯野の足には、まだ鳥羽の土がついていた。
境内の空き地に、市の姿はない。摂津へ出ている。砂には、薙刀を振るたびに踏んだ足跡が、まだ重なっていた。足音のしない空き地を横切って、磯野は客殿へ上がった。
書院では、長政が机に向かっていた。書付が何枚か広げられている。長政が一枚を手に取るあいだに、磯野は敷居の内で膝をついた。
「山城の岩成が、淀から北へ出てまいりました。昨日、鳥羽の南の村で当たり、押し返しはいたしたが、こちらも手負いが出ておりまする」
村へ出た岩成の兵は、前より多かった。淀の城へ戻っても、また出てくる。磯野の一千は、負傷した兵を帰すたびに減っていた。
昨日、退いていく岩成の旗を磯野は見た。倒れた者を連れて、列を崩さず淀へ戻っていった。こちらも旗は守った。だが、鳥羽へ戻る兵の列には、槍を杖にして歩く者が何人もいた。次に同じ旗が現れたら、昨日と同じ前列は組めない。
「千では、次は保ちませぬ」
長政は取次を呼び、薬と車を鳥羽へやるように命じた。歩けぬ兵は京へ運ぶ。取次は廊下へ出ていった。磯野は、今朝、槍を握ったまま寝ていた兵を思った。あの者も運ばれてくるだろう。
長政は持っていた書付を机へ置いた。磯野は返事を待った。鳥羽に兵を足すか、下がらせるか。陣へ戻る前に、そのどちらかは聞きたかった。長政は次の書付を取らなかった。
この春、三好が摂津に集まったとき、長政は兵を連れて出た。今は鳥羽へ兵を足せば、摂津か河内が薄くなる。京から兵を出しても、京へ上る道を誰が守るか決めねばならない。
磯野は書院の端へ下がった。廊下を足音が近づいてくる。海北が、帳面を抱えて入ってきた。
「摂津から、使いがまいりました」
海北は、使いが持ち帰った書付を長政の前へ置いた。
「日向守の船が、江口へ上がりました」
「藤吉郎殿は」
「兵を出しました。着く前に、船は離れておりまする」
長政は書付の下の方へ目を移した。磯野にも、江口の横へ書き足された別の村の名が見えた。墨の色が違っていた。
「鳥飼にも上がったのか」
「はっ。江口へ走った兵は、まだ戻っておりませぬ」
江口も鳥飼も、淀川の岸の村である。藤吉郎の陣から川を下ったところにあり、鳥飼の方が陣に近い。
「船は追えぬか」
長政が訊いた。海北は、机の書付を指で押さえた。
「川へ出す船がござりませぬ」
長政が摂津の書付から顔を上げると、海北は次の紙を開いた。
「河内では、下野守にまた野を取られました」
「蒲生たちは」
「三人とも、同じ陣から出ておりまする。明日も出ると、蒲生殿から報せが来ておりまする」
磯野は海北の紙を見た。蒲生たちの陣では、市が来た日に三好を押し返したと聞いている。市が摂津へ去ってからも、三人の旗は並んで出ている。それでも押し返されていた。三人が一緒に動いても、足りない兵は増えない。
「それと、刈り入れが近うござりまする」
海北が帳面を開いた。兵を出している家の名が、北近江も南近江も続いている。幾つかの行には、海北が小さな印をつけていた。
「北近江も南近江も、国衆の兵を田へ帰さねばなりませぬ。帰さねば、来年の米が足りませぬ。帰せば、三方と京のすべてには兵を置けませぬ」
海北は帳面を閉じ、磯野の隣へ下がった。磯野の陣からは、今朝も手負いを前列から外したばかりである。刈り入れでさらに兵を帰せば、まだ槍を持てる者も列から抜かねばならない。
山城、摂津、河内。どこも兵が足りていない。磯野は、自分の鳥羽の陣を思い出した。昨夜も、一人が熱を出した。槍を持って並べる者は、今朝また減っていた。
書院に蝉の声が届いた。本堂の方で一匹が鳴き、止む。誰も次の下知を口にしなかった。
そこへ、寺の門から蹄の音がした。
磯野は縁へ目をやった。黒い馬を先頭に、騎馬が境内へ入ってくる。市である。三田村と大野木が後ろにつき、野村が馬を引いていた。
京を出た春より、騎馬は少なかった。野村が引く馬には、乗り手のない鞍がいくつもついていた。鐙が揺れて、馬の腹へ当たっている。市の袴の裾にも泥がつき、顔には埃が残っていた。
市が空き地で馬を降りると、黒い馬が鼻を寄せた。市はその鼻先を一度撫で、手綱を野村に渡した。薙刀を持って客殿へ向かう。誰かが水を持ってきたが、市は見向きもせずに縁へ上がった。
敷居をまたぎ、長政の前に立つ。
「なぜ負けておる。なぜ兵が減っておるのじゃ」
長政が顔を上げた。
「三方に分けて守っておりまする。京を空けられませぬ」
「では、なぜ勝てぬのじゃ」
長政の口が開きかけて、閉じた。磯野は隣の海北を見た。海北も長政を見ている。
「・・・市のおらぬところが、負けておりまする」
市は長政を見下ろした。眉を寄せたまま、摂津から持ってきた薙刀の石突きを床へ置いた。
「京がそんなに大事なのか」
「・・・はい」
長政は、次を言わなかった。磯野は膝を進めた。
「鳥羽から引けば、岩成が京へ上がりまする」
市が磯野を見た。鳥羽で昨日並んだ兵の顔が浮かぶ。あの兵を京へ戻せば、岩成の通る道には誰もいなくなる。だが、鳥羽へ残しても、次の攻めに保つかどうかは分からなかった。
「京など、また取ればよいではないか」
海北が顔を上げた。磯野は、市が目を逸らさないのを見た。長政も市を見ている。書院の外では、野村が黒い馬を連れて空き地を横切っていた。
市は机の上に広げられた書付を見た。山城、摂津、河内から届いた三通が、離れて置いてある。薙刀を脇に抱え直して、机の前へ来た。
「分けるから、どこも弱いのじゃ。一つにまとめればよいのじゃ」
市は手を伸ばし、三通を重ねた。ばらばらだった紙の端が揃った。
「一番弱いところを、みなで一気に突けばよいだけのことであろうが」
それだけ言うと、市は薙刀を肩に担いで書院を出た。縁を歩きながら、騎馬の者の名を呼んだ。呼ばれた者が塔頭の方から走ってくる。市は立ち止まらず、何か短く言いつけて、また別の者を呼んだ。
磯野は、重ねられた書付を見た。三方の兵をまとめれば、鳥羽の一千も動く。自分の陣を引き払う下知が来るのか、まだ分からなかった。
「鳥羽へ戻り申す」
長政から返事はなかった。磯野は頭を下げ、書院を出た。廊下の角で一度だけ振り返る。長政は市が重ねた三通を前に、まだ座っていた。
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