【第五章 三好】第六十五話 枚方の三陣 おぬし、名は
一五六五年 夏 河内 枚方
蒲生賢秀は、自分の幕の前から野を見ていた。
野に、三つの陣が並んでいた。淀川の南、河内の北の端にある枚方の野である。三好の陣へ向かって右が蒲生、真ん中が永原、左が目賀田。それぞれの旗の下に兵を置き、陣と陣のあいだを使いが行き来していた。
遠くに生駒の山並みが見える。足元の草は、日を浴びて白く乾いていた。その先に立つ三好下野守宗渭の旗は、昨日より近い。
河内に出てひと月ほどになる。宗渭は来ては当たり、蒲生たちを押し下げると、少し兵を引いた。次の日には、前よりこちらに近いところへ旗を立てている。
陣の兵は日ごとに減った。討たれた者より、傷を負って動けなくなった者が多い。
昨日は蒲生の兵が押された。永原に使いをやり、真ん中から人を寄せてくれと頼んだが、動いたのは日が傾いてからであった。そのときには、蒲生の旗はもう後ろへ下がっていた。今朝も、傷を負った兵が幕の陰に寝かされている。
今朝、蒲生と目賀田は永原の陣幕に集まった。外からは、兵のために湯を沸かす音が聞こえていた。
「昨日、真ん中が寄せてくれれば、下がらずに済んだ」
蒲生が永原を見た。永原は膝の上で手を組み直した。
「寄せようとは思うたのでござる。なれど、人を出したところへ真ん中を突かれれば、と」
「急いてはなりませぬ」
目賀田が二人のあいだで口を開いた。永原は膝の手をほどき、そちらを向いた。
「六角の頃は、本陣の下知を待って動いたものでござる」
「本陣は、ここにはござらぬ」
蒲生が言うと、三人とも黙った。幕の外に宗渭の旗が見えている。
春の野田では、長政も市を追って前へ出た。市の騎馬の少し後ろから、蒲生たちへ伝令を走らせた。右を押せと告げられ、蒲生が旗を前へ出すと、真ん中の永原も進み、目賀田も左を寄せた。今、長政は京にいる。三人が互いの使いを待つうちに、宗渭の旗はまた近づく。
蒲生は、六角にいた頃の寄り合いを思い出した。どの家も、隣が出るまで兵を動かさなかった。隣もまた、こちらを見ていた。その待ち方を、三人は今している。
「次に宗渭が出てきたら、誰が前へ出る」
目賀田が言った。昨日傷を負った者が多く、手元の兵は出せぬという。永原も「それがしの兵も」と言いかけて、顔を上げなかった。
蒲生は幕から顔を出した。宗渭の旗は朝と同じところにあったが、その下を槍を持った者が行き来している。
「・・・このままでは保ちませぬな」
蒲生は答えを待ったが、二人とも口を開かなかった。昼を過ぎても、旗の下の兵は動いていた。その日のうちに、蒲生は早馬の使いを京へ走らせた。
◇
三日目の朝、野を越えてくる土埃の先に、黒い馬が見えた。
蒲生が幕から出ると、騎馬を従えた市が陣へ向かってきた。蒲生は宗渭の旗を見た。市の姿が野の端に現れたときには、もう引きはじめている。旗の下の兵も列を崩さず、そのまま奥へ退いていった。
馬が陣の前で止まった。市は、遠ざかる旗を見た。
「大将はどれじゃ」
「もう、下がっておりまする」
三田村が答えた。市は旗が見えなくなるまで、そちらを向いていた。
「つまらぬのう」
馬を降りると、市は旧六角の兵が座るところへ歩いた。蒲生もついていった。市は、腕に布を巻いた兵の前で止まる。
「おぬし、名は」
兵は顔を上げ、しばらく口を開けなかった。後ろに立つ蒲生の方は見なかった。
「名を訊いておる」
「・・・源七にござりまする」
「源七。その傷は昨日のか」
「へえ」
「立てるか」
源七が膝に手をつく。立つと、市はすぐ隣の兵を見た。
「おぬしは」
「与作にござりまする」
「与作、槍は持てるか」
「持てまする」
与作が槍を取った。市はそこからまた別の兵へ歩き、名を訊いては呼んだ。声が小さければ、顔を寄せて訊き直す。呼ばれた兵が立つ。その隣も立つ。蒲生が声をかけても立つのに手間取っていた者たちが、市の後ろへ目を向けていた。
昼を過ぎると、宗渭の旗がまた現れた。市は陣の前で馬に乗り、薙刀を立てている。宗渭の旗は野の半ばで止まり、そこから前の列だけを出してきた。
蒲生の兵が市の馬を見た。槍を持った源七も、その中にいた。
「右を出す」
蒲生が命じると、兵が前へ進んだ。永原へ、右は出ると知らせにやった。
使いが着くより先に、永原の幕の方から声が上がった。真ん中の槍が寄り、少し遅れて目賀田の旗が前へ出た。三人は、長政の下知を待たなかった。
宗渭の前の列とぶつかった。源七が槍を出す。隣の兵も出す。蒲生の兵が押すと、真ん中が続いた。三好の槍が源七の前で揃った。源七は腕の布を濡らしながら踏みとどまる。そこへ永原の兵が肩を並べた。三好の前の列が下がり、宗渭の旗の方へ戻っていく。
市の馬は、まだ陣の前にいた。三好の大将へ駆ける道は開いていない。それでも源七も与作も前にいた。蒲生は押していく旗と、陣の前に立つ薙刀を見比べた。
◇
日が傾き、三人はまた永原の幕の前に集まった。
「明日、追うべきか」
蒲生は宗渭の旗が下がった野を指した。兵が倒れた跡には、踏まれた草がまだ残っている。
「いや、それは、その」
永原は言葉を探した。目賀田が先に答える。
「深く追えば、下野守につく国衆に囲まれまする」
「なれど、ここで待てば、また向こうが来る」
蒲生が言うと、目賀田は自分の幕の方を見た。
「追うなら、誰が先に」
「身共の兵は、昨日の傷がまだ」
「それがしも、その」
右を出し、真ん中と左が続いたのは今日のことである。追う番となると、また誰も決められなかった。
市が、兵の間から歩いてきた。三人の前で立ち止まり、順に顔を見た。
「おぬしら、いつまで六角の家来のつもりじゃ」
蒲生は口を開けなかった。市は眉を寄せたまま、続ける。
「六角はわしが平らげて、もうないわ」
市は、三人の背後に並ぶ陣を見た。
「おぬしら、なぜ別々に陣を張っておるのじゃ」
蒲生は、昨日、永原の陣へ使いをやって待った。そのあいだに、自分の旗は下がった。答えられずにいると、市は三人の顔をもう一度見た。
「おぬしらがまとまらんで、兵がまとまるか」
目賀田が俯いた。永原は膝の上の手を握り直した。
「それにのう、おぬしらはわしの大事な家来じゃ」
蒲生の膝が動いた。六角の宿老であった自分を、市はそう呼んだ。
「もしもの時はわしが助ける」
市は、そう言った。当たり前のことを言う声であった。蒲生は膝の上の手を見た。知らぬ間に、握っていた。
「じゃから、ぞんぶんに三好を平らげてみせよ」
「それとも、おぬしらは三好が怖いのか」
目賀田が顔を上げる。蒲生ではなく、市の方を見た。
「腰抜けはいらんぞ」
永原が息を呑んだ。膝の上の手が止まった。
「わかったら、倒してこい」
三人が答えないうちに、京からの使いが馬で駆け込んできた。市の前で膝をつく。蒲生は、その馬の首から汗が滴っているのを見た。
「殿より。摂津に日向守が上がりました。お出ましを」
「摂津か」
市はもう三人を見ていなかった。野村が馬を引いてきて、三田村が騎馬を揃えている。市が一声もかけないうちに、皆が動いていた。
市は馬に跨り、土埃を立てて陣を駆け出した。騎馬が続く。三人は幕の前から、それを見送った。
◇
翌朝、蒲生たちは陣と陣の間を詰め、三つの陣を一つにした。兵はそれまでどおり右、真ん中、左を守る。中央に陣幕を一つ立て、三人ともそこへ入った。
市が去って四日目に、宗渭の旗がまた現れた。
蒲生が右を出すと、永原の兵が寄り、目賀田も左から前へ出た。前ほどは待たなかった。
だが、宗渭の兵の方が多い。三つの旗を並べて押しても、向こうの槍はまだ続いていた。日が傾くまでに、市がいた日に押したところも、また取られた。
夕方、蒲生が陣の端に立つと、永原が隣へ来た。少し遅れて目賀田も並んだ。
三人とも、市が駆け去った道を見ていた。何も言わなかった。
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