【第五章 三好】第六十四話 兵の噂 殿様が、あそこまで来た
◇
蒲生賢秀は、長政の陣幕へ呼ばれて歩いていた。
日が傾いて、潮がまた満ちはじめていた。川の岸を通ると、朝に渡った浅瀬は、もう膝の上まで水が来ている。その水の中に、黒い馬が立っていた。
市が袖をまくり、馬の脚を洗っていた。岸では野村が手綱と薙刀を持っている。馬が首を振り、水が市の顔に跳ねた。市は声を上げて笑い、また手で水をすくった。
蒲生は通り過ぎながら振り返った。朝、三好の兵を押し分けて船着き場まで駆けた馬である。市は、その脚についた泥を指で落としていた。
陣幕には永原と目賀田が先に来ていた。藤吉郎と海北もいる。長政はまだ具足を脱いでおらず、胴の脇には槍でこすれた跡が一筋残っていた。
「今日は、ようやってくれた」
長政が顔を向けると、永原が背筋を伸ばした。蒲生は胴の傷から目を離した。
「正面が押したゆえ、道が開いた。蒲生、右をよう押してくれた。目賀田の寄せも早かった。永原は崩れずに進んでくれた」
三人は頭を下げた。蒲生のところへは朝、伝令が走ってきた。右を押せと言う。その背後では、長政の馬が市の騎馬のすぐ後ろまで出ていた。蒲生の旗が進むと、伝令はまた長政のもとへ駆け戻っていった。
三好は船で退いた。どこへ行ったかは、望月に探らせている。分かるまで陣を動かさぬと長政が言い、話が一区切りついたところで、藤吉郎が膝を進めた。
「浅井様。一つ、申し上げてもよろしゅうござりまするか」
「何なりと、申されませ」
「総大将が、正面の前へ出られるとは、何ごとにござりまするか」
幕の中が静かになった。蒲生は長政の胴についた跡を見た。今朝、槍を持った三好の兵は、長政の馬から遠くないところにいた。
「浅井様が討たれれば、浅井の兵は帰る家を失いまする。お市様がどれほど強うても、家は立ちませぬ」
藤吉郎は旧六角の三人へも目を向けた。目賀田が膝の上で手を握り直す。永原は長政の胴を見たまま、何も言わなかった。
蒲生も口を開けなかった。六角の当主が戦のたびに床几を離れなかったことを知っている。前へ出るなと主に言うべきなのも分かる。だが、朝は伝令の背の向こうに長政の馬が見え、蒲生の旗も前へ出ていた。
「伝令なら、あそこまで馬を進めずとも出せまする」
「心得ておりまする」
長政は答えたが、次から前へ出ぬとは言わなかった。胴の傷のあたりに手を置き、藤吉郎を見ている。
藤吉郎はもう一度口を開きかけ、閉じた。膝の上で拳を緩めてから、頭を下げた。
「・・・差し出がましゅうござりました」
納得した顔ではなかった。蒲生にも答えはない。長政が討たれれば家は終わる。だが、立てた薙刀を追う旧六角の兵の後ろまで、長政は馬を進めていた。六角にいた頃、蒲生は兵があんなふうに前へ進むのを見たことがなかった。
「今日は、これで」
蒲生たちが幕を出ると、陣には飯を炊く火が点々と上がっていた。火のまわりでは、旧六角の兵が今朝のことを話している。
「殿様が、あそこまで来ておられたわ」
「わしも見た。旗のすぐ後ろじゃ」
その先に、もう一つ大きな輪があった。真ん中に市がいる。薙刀は持っていない。袖は、川で見たときのまま、まくってあった。
兵が何か言うと、市が笑った。市が蒲生に気づく。
「賢秀」
蒲生は足を止めた。
「大将に逃げられてしもうた」
腹を立てた声ではなかった。
「・・・は」
蒲生が答えると、市はもう別の兵へ向いていた。その兵の名を呼び、何か言い返されて、また笑った。
蒲生は頭を下げ、輪の外を回った。背後で、また市の笑い声がした。
一五六五年 春 京 妙覚寺
磯野員昌は、山城から帰った物見の話を聞き、妙覚寺の客殿へ上がった。
摂津から京へ戻って、半月ほどが経っていた。境内の空き地では、市が薙刀を振っている。寺の僧たちは、もうその脇を通らなかった。
書院には長政と海北がいた。藤吉郎も控えている。磯野は敷居の内で膝をついた。
「岩成主税助が、淀で兵を集めておりまする。日ごとに旗が増えておる由」
「淀か」
淀には岩成の城がある。春、山科で市が追った旗の主であった。京へ来る道にも、摂津へ船を出す川にも近い。磯野の物見は、城の外まで兵が集まっているのを見ていた。
「引き続き見ておれ。数が分かれば、また報せよ」
「はっ」
磯野が書院の端へ下がると、入れ替わりに薬売りの形をした男が来た。春から何度か見かけた、長政が望月殿と呼ぶ男である。
「三好日向守が、阿波から戻っておりまする。野田と福島の湊に、船が着きはじめました」
市が春に船着き場まで追った、高い旗の主である。磯野は縁の向こうに聞こえる薙刀の音を聞いた。長政が、望月へ兵の数を訊く。
「まだ揃うておりませぬ。船は今も来ておりまする」
望月が下がったところへ、蒲生が永原と目賀田を連れて入ってきた。磯野は、三人が並んで座るのを見た。
「殿。河内から使いがまいりました。六角の頃から行き来のある家にござりまする」
蒲生は膝をつき、三好下野守宗渭が河内で兵を集めていると告げた。周りの国衆にも声をかけているという。永原と目賀田が、蒲生の後ろで頭を下げていた。
山城に岩成、摂津に長逸、河内に宗渭。磯野は三人の名を順に聞いた。春は野田と福島の一か所に集まった三好を、揃う前に討てた。今度は離れたところで、それぞれ兵を集めている。
「京を空けるわけにはゆかぬ」
長政が、集まった者を見渡した。海北は帳面を開きかけていた。
「京を守る兵に加え、山城、摂津、河内へ出す兵が要る」
「今、手にある兵は五千にござりまする」
海北が帳面を開いた。磯野は五千を四つに割ってみた。山城では岩成の旗が増え、摂津にはまだ船が着き、河内では国衆が集まる。一つずつでは薄い。
市は一人である。一度に三か所へは行けない。藤吉郎が膝を進めた。
「織田から、兵をお借りできましょう」
「上様へ、わたくしから文を出しまする。美濃に兵が要るゆえ、多くは望めませぬが」
「京を守るためと伝えてくだされ」
「はっ」
長政は磯野を見た。磯野は、鳥羽へ置かれると察して背を正した。
「鳥羽に陣を置け。浅井の兵を一千。岩成が京へ出てくれば受けよ。押されたら、すぐに報せよ」
「承知」
鳥羽なら、京へ戻る道を押さえられる。磯野は頭を下げた。
「藤吉郎殿。浅井の兵を連れて、摂津へ出てくだされ。織田の兵が来れば、そちらもお預けいたしまする」
藤吉郎は一度、顔を上げた。兵を持たずに京へ来た男である。だがすぐに頭を下げた。
「はっ」
「蒲生、永原、目賀田。河内を頼む。南近江の者たちを率いてくれ」
三人の頭が下がった。磯野には、顔を見合わせないままの三人が見えた。春、同じ旗の下へ集められた者たちが、今度は浅井の兵と離れて一つの陣を預かる。
「京には、わたしと海北が残る」
長政が言葉を切った。縁の先で、薙刀の音も止んでいた。
市が上がってきた。額に汗が光り、砂を踏んだ足で縁に立っている。いつから聞いていたのか、磯野には分からない。
「長政、わしはどこじゃ」
「市は、どこにも付きませぬ」
「どういうことじゃ」
「三好が出てきたところへ報せまする。報せを受けたら、そこへ向かってくだされ」
市は、長政を見た。
「呼ばれた方へ行けばよいのじゃな」
「はい」
「大将がおったら斬ればよいのじゃな」
「はい」
「おらなんだら」
「そのときは、兵を励ましてくだされ。大将の居場所は、わたしがまた探しまする」
市は薙刀の石突きを縁に置いた。磯野は、板が鳴るのを聞いた。市は、蒲生と藤吉郎と、磯野を順に見た。
「三人とも、大将を見つけたらわしに知らせるのじゃぞ」
蒲生が頭を下げた。藤吉郎も下げた。磯野が「はっ」と答えると、市の口の端が上がった。
磯野は、四つに分かれる兵の数をもう一度考えた。誰の前も薄くなる。その薄いところへ、いつ三好の兵が来るかも分からない。
市だけが、笑っていた。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




