【第五章 三好】第六十三話 野田の渡河 蒲生へ。右を少し前へ
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木下藤吉郎は、長政の馬の脇にいた。
夜が明けきる前に、浅井の陣が動きはじめていた。藤吉郎は兵を持っていない。川向こうの三好の旗を見ながら、渡河の様子を見ていた。旗の紋は、まだ暗くて分からなかった。
夜のうちに物見が、馬の脚で浅いところを確かめていた。潮が引いた今、旧六角の兵が先に川へ入った。向こう岸へ上がった二千五百が、槍を前に、弓をその後ろにして横へ広がっていく。隊のあいだに旗が立った。
藤吉郎の前で、兵が一人、川に足を取られた。隣の兵が腕を掴み、立ち直らせた。
その兵は岸へ上がると、自分の旗を探して槍の列へ入った。穂先を隣の兵と揃えた。六角の家で受け継いだ戦の組み方が、今は浅井の旗の下にあった。
北近江の一千がその後ろへ渡った。市の騎馬は旧六角の正面の後ろに控え、長政はさらに後ろから並びを見ていた。
藤吉郎も長政について馬を川へ入れた。昨日、市の馬が進めなくなったところである。水は馬の脚を洗ったが、腹まで上がってはこなかった。対岸へ着く頃には、旧六角の前列はもう並び終えていた。
日が上がり、市の薙刀が光った。市は旧六角の兵の向こうに立つ高い旗を見ていた。
旧六角の槍が一斉に前へ傾いた。市はそれを見ても馬を出さなかった。高い旗とのあいだは、まだ兵で塞がっていた。
長政の脇には、伝令が何人か控えていた。長政は蒲生の旗を指した。
「蒲生へ。右を少し前へ」
一人が前列の右へ駆けた。しばらくして蒲生の旗が前に出る。伝令が戻り、右の兵もついてきていると告げた。長政は伝令を下がらせず、そのまま脇へ控えさせた。
「永原へ。そのまま待て」
次の伝令が走った。藤吉郎は、長政が旗を見ては短く命じ、伝令が往復するのを見ていた。
旧六角の正面が進んだ。槍がぶつかる音がした。前の列が押すと、向かいの三好の隊が下がった。その後ろでは、昨日と同じように旗がばらばらに立っていた。
下がった隊の隣には、違う紋の旗が立っていた。その隊は助けに寄らない。押された兵だけが、さらに下がっていく。
二つの旗のあいだが開いた。
藤吉郎は、そこから船着き場の高い旗までを見た。三好の兵の固まりの中に、一筋だけ道ができている。押されていた兵が槍を向け直そうとしたが、隣の旗からはまだ誰も来なかった。
市が、その先にある高い旗を見た。立てていた薙刀を、少し前へ傾けた。
「あの旗が大将じゃな」
「はっ」
三田村が答えたときには、市はもう馬の腹を蹴っていた。
市が駆けていく。
旧六角の兵が左右へ体を開く。
市が、そのあいだを抜ける。
三田村と大野木が両脇につく。
騎馬が続く。
市が、三好の陣の空いたところへ入る。
藤吉郎は息を呑んだ。三好の兵の中へ入っても、立てた薙刀で市の位置は分かった。
前に兵が立った。
薙刀が上がる。
次に見たときには、兵が倒れていた。
市が、倒れた兵の脇を抜ける。
また兵が立った。
また倒れる。
三田村が左を払う。
大野木が右を払っていく。
市の背は、馬が向きを変えても揺れなかった。
三好の兵が、市の通った道へ戻ってきた。後続の騎馬が押し分けたが、市の薙刀はもうその先で光っていた。
清洲で聞いた噂より、ずっと速かった。誰かを倒すたびに立ち止まるのではない。倒れた兵の向こうへ、もう市が出ていた。藤吉郎は、遠ざかる薙刀を目で追った。
長政が馬を出した。藤吉郎も、後を追った。長政は北近江の兵を抜け、旧六角が開けた道へ入る。市の騎馬の少し後ろで、馬を並べた伝令に命じた。
「蒲生へ。右を押せ。目賀田には、左を寄せよと伝えよ」
二人が左右へ走った。長政は、別の伝令を永原の旗へやった。
「そのまま進めと伝えよ」
藤吉郎は、長政の後ろで馬を止めた。兵を持たずに正面へ出ても、できることはない。伝令が六角の旗へ走るのを見送った。
藤吉郎の前を、旧六角の兵が声を上げて進んでいった。兵の顔は市の方へ向いていたが、足は自分たちの旗に合わせて動いていた。長政は、その旗が離れないかを見ていた。
伝令が一人戻った。
「蒲生勢、右へ押し出しておりまする」
長政は答えず、蒲生の旗を見た。藤吉郎も追う。伝令が走り出たときより、旗の間が詰まっていた。
その向こうで、蒲生の旗が三好の旗を押し込んでいた。もう一人が戻り、目賀田も寄せたと告げる。左の旗が動いた。永原へ行った伝令も戻り、歩みを緩めていないと報じた。中ほどの旗が、二つの端について進んでいた。
長政は三つの旗を順に見た。伝令をもう一度走らせようとはせず、その前を駆ける市へ目を向けた。藤吉郎も見た。高い旗までの間に、まだ兵がいる。
押されていた三好の隊が崩れた。隣の隊がようやく動いたときには、その脇を市の騎馬が抜けていた。
高い旗が、船着き場へ向けて下がりはじめた。
市が追う。
前を塞ぐ兵が倒れた。
旗との間が縮まる。
その前へ、年かさの武者が出た。
槍を持ち、市の正面に立った。
三好の兵が、男の名らしいものを叫んだ。藤吉郎には聞き取れなかった。
市が迫る。
男が槍を突いた。
市が馬を横へ寄せる。
穂先が外れた。
薙刀が下りる。
男が倒れた。
市が馬を止める。
三田村と大野木らが急いで馬を降りた。三田村が周りへ槍を向け、大野木が腰の小刀を抜き、倒れた武者の首を落とした。脇の者が首を受け取った。三好の兵は少し離れたところで、槍を構えたまま寄ってこなかった。
藤吉郎には、大野木の背の向こうで高い旗が船着き場へ近づくのが見えた。三好の兵が、旗の前に道を空けていた。
市は馬上で微動だにせず、大野木の手元を見ていた。
首を受け取った者が馬の方へ走った。大野木が顔を上げ、声を張った。
「お市様、三好の武者、討ち取ったり!」
皆が急いで馬へ戻った。大野木が鞍へ上がり、三田村も手綱を取った。市は全員が戻るまで動かなかった。
高い旗だけが、船着き場へ下がっていった。
最後の一人が馬へ上がった。三田村が船着き場へ槍の穂先を向けた。
「お市様、あの旗が船へ」
市が顔を上げた。高い旗の下にいた者たちは、もう船へ渡す板の前に集まっていた。
「あれじゃな。ついてまいれ」
市が駆けだす。
高い旗が、船へ渡った。市と船のあいだにいた三好の兵が、馬を避けて散った。
板が外された。
市が岸の端へ着く。
櫂が、水を掻いた。
船が岸を離れた。市は馬を止め、薙刀を立てたまま、高い旗を見ていた。
ほかの船も、次々に岸を離れていった。乗れなかった者は、村や川辺へ散っていく。膝をつく兵はおらず、村から浅井を迎えに出る者もいなかった。藤吉郎は馬の上から、遠ざかる船を見た。浅井には、水の上へ追う手がなかった。
◇
三好長逸は、岸を離れる船の上で、船縁に手をかけて振り返った。
長く側にいた甚左を倒した黒い馬が、船着き場の端まで来ていた。乗り手は薙刀を立てたまま、長逸の船を見ていた。
女であった。
船には、逃げ込んだ者が肩を寄せて乗っていた。長逸のそばでは、櫂を漕ぐ者が手を休めなかった。
岸の兵が一人、水へ踏み込み、船へ手を伸ばした。船の者が櫂を上げかけ、長逸を見た。
「甚左・・・」
長逸は船縁を握り直した。船の者たちも、岸の女を見ていた。
「殿、まだ兵が残っておりまする」
長逸は、櫂の音を聞いた。岸の兵が水から上がり、ほかの船の方へ走り出す。その後ろに黒い馬がいた。
「櫂を止めるな。ほかの船を見失うな」
漕ぐ者がうなずいた。甚左が倒れたところへ、戻る船はなかった。
隣の船から、岸を指して叫ぶ声がした。長逸は顔を向けなかった。高い旗が風に鳴る。その下で長逸は、岸の端だけを見ていた。
櫂が水を掻くたびに、岸が遠くなった。女は馬を動かさず、こちらを見ていた。
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