【第五章 三好】第六十一話 京入り どうせ、主が替わるだけじゃ
一五六五年 春 京 三条
三条の布屋の主が、東で戦があったと聞いたのは、朝のうちであった。
主は、通りに面した店で帳面を広げていた。奥の蔵には、近江から入ってきた麻の反物が積んである。
知らせを持ってきたのは、近所の米屋の手代であった。昨日、山科で戦があり、三好の岩成勢が引いたという。近江から来た軍勢は、今日にも京へ入ってくるらしい。
「近江の、どこの家じゃ」
「浅井とか申すそうにござります」
北近江の家である。去年、六角を滅ぼした家だと聞いたことはあった。それ以上のことは、主も知らなかった。
手代が次の店へ向かうと、主は帳面を閉じた。近江の麻は、大津から逢坂と山科を通って入ってくる。東から京へ来る荷は、たいていこの道を通った。次の荷は、いつもなら明日には逢坂を越えるはずであった。
止めれば、荷は無事である。だが、そのあいだ商いも止まる。進ませれば、入ってきた軍勢に取られるかもしれない。主は、もう少し様子を見ることにした。
昼前、三好の者が十人ほど、荷を担がせて通りを南へ歩いていった。主は、その顔を何人か知っていた。去年、店の布を一反持っていき、代を払わなかった者もいた。奥から女房が出てきて、その列を見送った。
「どうなりまする」
「どうせ、主が替わるだけじゃろ」
京へ入った軍勢は、しばらく町から物を持っていく。代を払わない者の方が多く、そのうち別の軍勢に追い出される。主は、何度も見てきた。
昼を過ぎると、町の年寄が木戸を開けておくと触れて回った。閉じて待てば、逆らったと見られる。店の戸は閉めたまま、軍勢だけを通す。主は、戸の脇の格子に座った。
しばらくして、東から蹄の音が聞こえてきた。一つではない。いくつもの蹄が、まとまって近づいてくる。
三条の通りは、東へまっすぐ延び、その先で鴨川を渡る。蹄の音は木戸の前でも止まらなかった。名乗る声もしなかった。
黒い馬が、木戸を抜ける。
女が乗っている。
具足をつけていなかった。袴にたすき掛けで、髪を後ろに束ね、右手に薙刀を立てている。両脇には槍を持った男が一人ずつつき、後ろから騎馬が何十か続いていた。
立てた薙刀の刃が、時折、日を返した。旗は、一本もなかった。
女が、先頭である。
通りには誰も出ていなかった。どの家も戸を閉め、格子の隙間から見ているだけであった。
女は、馬の速さを落とさない。
閉まった戸を、右へ左へ見ながら駆けてくる。
黒い馬が、店の前を抜ける。
馬の起こした風が、格子から入ってきた。主は顔を引き、すぐにまた寄せた。
女が、東洞院の辻で手綱を引く。
黒い馬が止まる。
辻の四方は、どの家も戸を閉めていた。女は南の方を見た。先ほど三好の者たちが折れていった方である。
「なんじゃ、また逃げたぞ」
声は、格子の内まではっきり届いた。何が「また」なのか、主には分からなかった。
女は馬の首を返し、通りを駆けていった。両脇の男と騎馬が続き、蹄の音が遠ざかった。
「あれは、どなたで」
「知らぬ」
主は、本当に知らなかった。京へ入る軍勢を何度も見てきたが、先頭はいつも男であった。女が具足もつけず、旗も立てずに入ってきたことはない。それに、早すぎた。三好の者が出ていってから、まだいくらも経っていなかった。
しばらくして、また東から音がした。今度は、大勢の足音が混じっていた。
見たことのない旗を立てた軍勢が、通りへ入ってきた。先頭近くの若い男は、東洞院の辻で馬を降り、迎えに出た町の年寄と話した。それから兵を北と南へ分けていった。
兵の一人が列を離れ、店の方へ来た。主は身を固くした。兵は、戸の前で止まった。
「水を一杯、もらえぬか」
主は戸を少しだけ開けた。若い兵であった。汗をかき、具足には山科の土がついていた。
女房が持ってきた柄杓の水を、兵は一息に飲んだ。柄杓を返すと、懐に手を入れた。主の体が固くなった。
兵は銭を一枚、柄杓の脇へ置いた。主は、銭と兵の顔を見比べた。
「かたじけない」
兵は頭を下げ、列へ走って戻っていった。通りを進むほかの兵も、開きはじめた店へ入ろうとしなかった。
主は、手の中の銭を見た。水一杯に置いていったものである。
主は帳面を開いた。しばらく見てから、奥へ声をかけた。
「手代を呼べ。大津へ人をやる。荷は止めるな。明日、逢坂を越えさせよ」
一五六五年 春 京 妙覚寺
海北綱親は、町と陣を一回りして、妙覚寺の客殿へ戻ってきた。
町の戸は開きはじめ、兵との揉め事は一つもなかった。京へ入って四日目であった。浅井は妙覚寺を宿所にし、五千の兵は寺と周囲の町家、空き地に分かれている。
妙覚寺は、二条衣棚にある。上京と下京のあいだの、家の少ないあたりである。築地に囲まれた広い寺で、中に本堂と客殿が建ち、そのまわりに塔頭がいくつも並んでいる。築地の外へ出て少し南へ歩けば、焼けた公方の御所の跡があった。
書院の襖は開けてあった。長政は机に向かい、京から摂津までを描いた絵図の脇で書状を書いていた。隅には藤吉郎が控え、膝の上の帳面へ何かを書き付けている。縁の先では、市が薙刀を振っていた。
寺の砂を踏み、上から振り下ろす。返して、横へ払う。足の出るところはいつも同じで、砂には何日分もの跡が重なっていた。僧たちは空き地を避け、塔頭の裏を回っていた。
長政は、市が薙刀を振り下ろすたびに顔を上げた。一行書いては、また縁の先を見ていた。海北は敷居の内で膝をついた。
「町を回ってまいりました。揉め事はござりませぬ。病の者が二人。薬を出させておりまする」
「うむ」
縁の方から足音がした。薬売りの姿をした男が、背に箱を負って現れた。男は書院へ上がらず、敷居の外で膝をついた。長政が筆を置いた。
「望月殿」
「申し上げまする。三好が、摂津の野田と福島に集まっておりまする」
「数は、いかほどにござりまするか」
「まだ揃うておりませぬ。三好日向守の手勢が先に着き、阿波から船が着きはじめておりまする。着いた順に降りて並んでおるだけ。陣には、まだなっておりませぬ」
長政は、絵図の上に指を置いた。京から山崎を抜け、淀川に沿って下る。幾筋もの川に挟まれた野田で、指が止まった。
「揃う前に出る。京には千を残し、磯野に預ける。残りの四千で、ここを叩く」
海北は帳面を開き、書き付けた。藤吉郎が、帳面から顔を上げた。
「出雲守殿。阿波の船は、あといかほど来ると見られまするか」
「分かりませぬ。来るだけ来るものと、見ておりまする」
海北は、出雲守という呼び名を覚えた。
縁の先で、薙刀の音が止んでいた。
市が、空き地の真ん中からこちらを見ていた。薙刀を立てたまま歩いてきて、縁へ上がった。額には汗が光り、袴の裾には砂がついていた。
「長政、戦のはなしか」
「三好が、摂津に集まっておりまする」
「集まっておるなら、ちょうどいいではないか」
市は薙刀の石突きを板へ置き、長政を見下ろした。石突きが、板を鳴らした。
「また逃げられてはかなわぬぞ」
「揃う前に、こちらから出まする。まだ、どこへ退くかを決める者がおりませぬゆえ」
「では、此度は逃げられぬのじゃな」
市の口の端が、上がった。
海北は、それを見た。京へ入ってから、市はこの顔をしていなかった。毎日、寺の空き地で薙刀を振り、誰も寄らない砂の上に足跡を重ねていた。
「あいわかった。出るぞ。支度せい」
市は、もう縁へ向き直っていた。長政の声で、足を止めた。
「市、お待ちくだされ。まだ支度ができておりませぬ」
「支度など、すぐ済むであろう。はよう済ませい」
市は薙刀を肩に担ぎ、縁へ戻った。歩きながら騎馬の者の名を呼ぶと、塔頭の方から返事が上がった。長政は、その背を見送ってから海北へ向き直った。
「触れを回せ。明日の朝には出る」
「はっ」
海北は帳面を閉じた。境内では、市がもう次の者の名を呼んでいた。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




