【第五章 三好】第六十話 逢坂の峠 あの旗は、どこの家か
一五六五年 春 大津から京への道
三田村国定は、市のすぐ後ろで逢坂の峠道を進んでいた。
大津を発った浅井の軍勢が、京へ向かっている。先頭は、市であった。
逢坂の峠は、細かった。道の両側が、山である。木が道の上まで枝を伸ばしていて、昼でも暗かった。人が三人並べば、道が埋まった。
大野木が三田村に続き、その後ろに長政と藤吉郎がいた。藤吉郎は織田から来た男で、兵は連れていない。旧六角の道案内も後ろについていた。
長政の後ろでは、野村が替えの馬を引いていた。さらにその後ろに、浅井と旧六角の兵が、細い道に沿って長く延びていた。
ここで前を塞がれれば、止まる。三田村は、両側の山を見ていた。
誰も出てこなかった。
峠を下ると、野が開けた。山に囲まれた平らな野が、東から西へ一里ほど続いていた。田には水が張られはじめ、村があちこちに固まっていた。
野へ出てから、三田村は市の左へ、大野木は右へ馬を寄せた。
「ここが、山科にござりまする」
後ろで、藤吉郎が言った。隣の道案内に確かめてから、長政へ伝えていた。
後ろの兵が、峠から野へ出てきた。細い道を抜けると、野に広がり、旗ごとにまとまっていった。浅井と旧六角は、混ざらなかった。浅井が右、旧六角が左である。
軍勢は、旗ごとのまとまりを保ったまま、山科の野を西へ進んだ。しばらく行くと、市の馬が止まった。三田村も、手綱を引いた。
三田村は、前を見た。野の西の端に、それまで見えなかった旗が並んでいた。野が尽き、また山が始まるところである。道は、その旗のあいだから峠へ上がっていた。
「あれが日ノ岡の峠にござりまする。越えれば、京にござりまする」
道案内の者が、長政に告げた。旗は、その峠へ続く道を塞ぐように立っていた。
三田村は、旗を数えた。多くはなかった。浅井の方が、ずっと多い。
旗の紋は、三田村が知る北近江のものではなかった。この冬に覚えた、南近江のものでもない。
旗の並びの、真ん中の後ろに、大きい旗が一つあった。そのまわりに、人が固まっていた。床几が出ているのが見えた。伝令らしい者が、そこから左右へ走っていた。
あそこに、大将がいる。そう見たところで、三田村の後ろから長政の声がした。
「あの旗は、どこの家か」
「三好にござりまする。あの紋は、岩成主税助。三好の家の者にて、京を預かっておると聞きまする」
道案内の者が答えた。南近江の者は、京の近くの家も知っていた。
「岩成・・・」
長政が、その名を繰り返した。三田村も、その名を聞いた。
岩成主税助。初めて聞く名であった。
◇
「大将はどれじゃ」
横から、声がした。市であった。前を向いたまま、声を投げていた。誰に訊いたのでもなかった。
「真ん中の後ろ、大きい旗の下にござります」
「そうか、あれじゃな」
市は、そちらを見た。目が細くなり、薙刀の柄を握り直した。
「長政、ついてまいれ」
「はい」
市が、馬の腹を蹴る。
「みなの者、市に続け」
長政の声がしたとき、市はもう半分ほど出ていた。
三田村は、市の左についた。右に、大野木がついた。後ろから、騎馬が続いた。
市が野を西へ駆けていく。
田の畦が、何本も横切っていた。
黒い馬が、畦を跳ぶ。
泥が、後ろへ跳ねた。
畦を越えても、市の背は動かない。
三田村も跳んだ。二本目の畦で、馬が脚を取られかけた。持ち直したときには、市が半馬身先にいた。
三好の前の列が、近づいてきた。槍を構えていた。穂先が揃っていた。この前の六角の残りとは違った。
三田村は、槍を横へ払う構えをとった。
市は、速さを落とさない。
市が、揃った穂先の真ん中へ入る。
薙刀が上がる。
三田村は、左を払った。兵が、体を開いた。
開いたところへ、市が入る。
薙刀が下りる。
一人が、横へ倒れた。
黒い馬が、その脇を抜ける。
次の穂先が、市へ向いた。
市が、穂先の内へ入る。
穂先が、市の脇を過ぎた。
薙刀が返る。
兵が、倒れた。
市は、手綱をほとんど動かさない。
黒い馬が、向きを変える。
市の腰から上だけが回る。
市が、割れた前列を抜ける。
三田村は、槍一本ぶんの距離でついていった。割れた列の向こうへ目をやった。
大きい旗は、下がっていた。
旗は、揺れながら峠の方へ動いていた。そのまわりの人の固まりも、一緒に動いていた。床几は、もう見えなかった。市が届く前から、下がりはじめていた。
前の列の後ろにいた兵も、峠へ退いていた。崩れて逃げてはいなかった。背を向けていたが、走り方は揃っていた。
◇
「お市様、大将が引きまする」
「分かっておる」
市が、さらに速くなる。
前の列の残りが、左右へ散った。
市が、峠へ駆ける。
登り口で、道が細くなった。両側が山である。三好の兵の、最後の何人かが、上の方へ上がっていた。
市は、そのまま峠を上る。
三田村は後ろについた。大野木も、その後ろに続いた。道が細く、並ぶことはできなかった。
三好の兵の背中が、木の間に見えては隠れた。見えるたびに、遠くなっていた。
市が、峠の上へ出る。
三田村が追いついた。
市が、手綱を引く。
黒い馬が止まる。
峠の上から、道が向こうへ下っていた。下り坂の先には、また野があった。その向こうに、屋根が見えた。
三好の旗は、なかった。
下り坂にも、その先の野にも、旗は一本も見えなかった。兵の姿もない。道は下で幾筋にも分かれていて、どこへ退いたのか、三田村には分からなかった。
市は馬を降りず、薙刀を脇に抱えていた。下り坂の先に見える屋根から、目が動かなかった。
「逃がしてしもうたか」
市が、そう言った。三田村は、その横顔を見た。怒った様子はなかった。
後ろで、蹄の音がした。細い道を、一騎が上ってきた。
藤吉郎であった。槍も持たずに、ここまで追ってきていた。市の斜め後ろで馬を止め、下り坂の先を指した。息が上がっていた。
「あれは、京とは違う方へ下りてまいりました」
「道は、下で分かれておりまする。京へは、まっすぐあちらに」
「そうなのか」
「はっ」
市は、指された方を見た。それから、屋根の見える方へ目を戻した。
「京への道は空いたということじゃな」
「そういうことになりまする」
市の口の端が、上がった。
「わしが追い払ってやったわ」
市は、薙刀を持ち直した。
「京を捨てていきよった」
「はい」
三田村の後ろから、長政の声がした。いつのまにか、長政も追いついていた。
市は、それ以上は何も言わなかった。しばらく、下り坂の先を見ていた。
三田村は、峠の下の山科を振り返った。三好の前列にいた兵が、何人か倒れていた。しかし、大きい旗の下にいた者は、一人も倒れていなかった。
野は、浅井のものになっていた。だが、あの旗は、市に押される前から下がっていた。なぜ退いたのかは、三田村には分からなかった。
分からないまま、三田村は、また前を見た。
下り坂の先に、屋根が見えていた。
あいだに、誰もいなかった。
長政が、馬を市の横へ寄せた。
「市。今日は、山科に陣を置きまする。京へは、明日入りまする」
「なぜじゃ」
「日が傾いておりまするゆえ。兵が、まだ峠のこちら側に揃うておりませぬ」
市は、空を見た。日は、西の山の方へ下りかけていた。
「しかたないのう」
市は、そう言った。それから、馬の首を返した。
「明日じゃな」
「はい」
市は、峠を下りはじめた。山科の野の方へ、戻っていく。三田村は、その左についた。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




