↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第五章 三好】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/82

【第五章 三好】第五十九話 大津の社 取ったら、また来る

一五六五年 春  近江 大津



 蒲生賢秀は、膳所の社の前の野にいた。


 社は、湖に向いて建っていた。若宮八幡宮という。


 古い社である。昔は、粟津の森の八幡と呼ばれていたと、蒲生は聞いていた。その社殿は、応仁の頃の兵火で焼けている。今の社殿は、その後に建て直されたものであった。


 膳所は、湖の南の端に近い。少し先で湖は細くなり、瀬田で川になる。東から来た道は、この岸を大津まで通り、逢坂を越えて京へ入る。


 湖の浜から鳥居まで、まっすぐな参道が延びている。二町ほどである。両脇の野には、人が座っていた。


 蒲生は、日野から湖の岸を下り、昨日の夕方に着いた。


 その頃には、もう旗が立ちはじめていた。旗の脇には札まであり、それぞれ家の名が書いてあった。今朝、日が上がったときには、野は人で埋まっていた。蒲生の家は、札に従って、社に近い側の、参道の左手へ座った。


 誰が割ったのか、蒲生は知らなかった。訊いてもいなかった。訊く前から、座る場所があった。


 旗の後ろでは飯を炊いていた。煙が何十本も上がり、湖からの風に押されて社の方へ流れていった。その下では、名を読み上げる声が朝から途切れなかった。声は、旗から旗へ少しずつ移っていた。


 浅井と旧六角は、参道を挟んで分かれて座っていた。社へ向かって右手が浅井。左手が旧六角である。浜から鳥居まで、二つの軍勢のあいだを参道がまっすぐに延びていた。


 参道の右手、浜に近いあたりには、浅井の兵がすでに座っていた。北近江から船で下ってきた者たちで、昨日のうちに浜へ上がっていた。


 浅井の者が帳面を持ち、旗を一つずつ回っていた。家の名を呼ぶ。返事を聞く。来た人数を確かめる。書き付ける。蒲生の家にも来た。家の者が人数を答えると、帳面の者はそれを書き付けた。足りないとも言わず、次の旗へ移った。


 蒲生は野を見渡した。旧六角の家々の旗があった。永原の旗があった。目賀田の旗もあった。その向こうにも、見知った旗が続いていた。


 六角に仕えていた頃、蒲生は何度も着到の場にいた。触れが回り、日と場所が決まる。それでも、こんな風に揃ったことはない。来ない家があり、遅れる家があり、来ても数が足りない家があった。当主は床几に座り、来ない家を待つうちに、日が高くなった。


 欠けている旗は、なかった。見知った家は、すべて来ていた。


 蒲生の右手には永原がいた。何度も座り直し、そのたびに浜の方を見た。左手の目賀田は、膝へ手を置いたまま、じっと前を見ていた。


 浅井側の、参道に近いところに、年かさの武者が一人いた。具足をつけ、床几に腰かけていた。髭には白いものが混じっていた。兵から声をかけられると、短く答えた。


「あれは」


 蒲生が隣の家の者に訊いた。隣の者は、床几の武者へ目を向けた。


「磯野丹波守と申す、浅井の古い将にござる」


 磯野は浅井の兵を見ていた。旧六角の側へは、一度も顔を向けなかった。


 ◇


 社の前では、長政が手水を使っていた。幣の前に立ち、二度頭を下げた。二度手を打った。もう一度頭を下げた。神主が差し出した神酒を受けた。


 作法どおりであった。六角の当主も、戦の前には同じように社へ参っていた。


 長政は参り終えると、社の前から下がった。浜の方を見た。その浜で声が上がった。長政も蒲生も、そちらを見た。


 野に座る者の顔も、一斉に浜へ向いた。湖に、大きな船が一艘、近づいていた。帆を下ろして、漕いで寄ってくる。浜の手前で止まると、待っていた者たちが厚い板を運び、船の縁から浜へ渡した。


 船の上に、黒い馬がいた。その脇には、女が立っていた。


 市である。蒲生は、小谷の評定の間で、この女を一度見ていた。


 あのときも、市は薙刀を持ったまま入ってきた。今も、居並ぶ者へ目を向けようともしていない。蒲生は、船上の市から目を離せなかった。


 市は鞍に手をかけ、船の上で馬に跨った。右手に薙刀を取ると、馬の首を板の方へ向けた。黒い馬が蹄を置くたびに、板がしなった。船の縁が軋んだ。市は手綱をほとんど使わず、背をまっすぐにしたまま、黒い馬とともに浜へ下りた。


 市が馬の腹を蹴る。


 黒い馬が地を蹴って、砂が後ろへ跳ねる。


 蹄の音が、板の上から土の上へ変わった。


 市は薙刀を立てる。


 空には雲がなかった。


 刃が春の日を返した。


 湖から吹く風が、市の袖を後ろへ流した。


 炊煙が参道を横切っていた。


 黒い馬が煙へ入っていく。


 白い煙が二つに割れ、その向こうから馬が出た。


 二町の先には、鳥居が立っていた。


 市が参道へ入る。


 浅井側に座っていた兵が顔を上げた。馬がその前を抜けると、最初の兵が立った。続いて、その後ろの兵が立った。誰も命じてはいなかった。


 黒い馬が先へ出るたびに、浅井の兵が立った。立った兵を見て、さらに後ろが立った。旗が鳴った。槍が持ち上がった。具足の金具が、あちらこちらで音を立てた。


 市は緩めない。


 黒い馬が、立ち上がる浅井の兵と、座ったままの旧六角の兵とのあいだを駆け抜けていく。


 磯野が床几から立った。


 旧六角側では、旗が風に鳴った。旗の下の兵は、顔だけを動かして市を追っていた。


 市が蒲生の前へ来る。


 馬の起こした風が、蒲生の顔を打った。


 蒲生の家の旗が、大きく鳴った。


 市が目の前を抜ける。


 横顔が見えた。笑っていた。


 蒲生の家の兵が立った。


 蒲生は、遠ざかる市の背を追った。立てと命じられた覚えはない。それでも、前に座っていた兵は、蒲生の顔を見ることなく立ち上がっていた。


 永原の兵も立っていた。いつ立ったのか、蒲生は見ていなかった。


 黒い馬は、もう目賀田の前にいた。目賀田が腰を上げた。手間取った。それでも、立って前を見た。


 旧六角側でも、兵が立っていった。


 蒲生は膝に手をついた。腰を上げた。立ってから、自分も立ったことに気づいた。


 市は手綱を引かない。


 黒い馬が鳥居へ入る。


 蹄の音が高くなった。


 社が正面に迫る。


 市が鳥居を潜る。


 市が手綱を引く。


 黒い馬が首を上げた。前脚が土を掻いた。馬が止まった。蹄の音が消えた。


 参道の両脇では、浅井の兵も旧六角の兵も立っていた。浜から社まで、一人も座っていない。先ほどまで続いていた声も止まり、風に鳴る旗の音だけが残っていた。


 市は馬を降りなかった。そのまま社を見た。神主が口を開きかけ、長政を見た。長政が何も言わないので、神主も口を閉じた。


「ほお。京の近くにも社があるのじゃな」


 市は馬の首を返し、参道へ向き直った。立ち上がった野の端から端までを見た。


「みなの者、これより京を取りに行く」


 声は、浜の側の端まで届いた。湖からの風にも押し戻されなかった。


「京はわしらのものじゃ。平らげてくれる」


「おおー」


 声が上がった。浅井の側から上がり、旧六角の側からも上がった。蒲生の家の兵も声を上げていた。蒲生は声を出していなかった。それでも、口は開いていた。


 市は社へ向き直った。馬の上から、もう一度社を見た。


「取ったら、また来る」


 拝まなかった。頭も下げなかった。市は長政を見た。長政も市を見返した。


「長政、いくぞ」


 市は馬の首を返した。走り出すと、鳥居を潜り、浅井と旧六角のあいだの参道を戻っていった。浜の手前で折れ、街道の方へ出ていった。


「みなも続け」


 長政はそう言うと、自分の馬へ走った。馬を引いていた者が、手綱を差し出した。


 野が動いた。


 浅井の側も、旧六角の側も、同時に動き出した。旗が上がった。蒲生の家の旗も上がった。


 蒲生は、自分の馬へ足を向けた。歩いているつもりであった。だが、前を行く永原の背が近づいた。脇へ流れた。蒲生は、永原を追い越していた。


 走っていた。

面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。