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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第四章 甲賀の里】

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【第四章 甲賀の里】第五十八話 東山から あれが京か

一五六四年 晩秋  山城 東山



 山道を、市が駆け上がっていく。


 馬で登るにはきつい道である。岩が土から出て、木の根が道を横切っていた。市の黒い馬は、踏めるところを選びながら登っていく。それでも、速さは落ちなかった。


 長政が、その後ろについた。藤吉郎が、さらに後ろである。


 東山は、京の東に、北から南へ連なる山である。東から来る道はこの山の裾を回り、粟田口で京へ入る。その粟田口から、山の背へ上がる細い道があった。三人が登っているのは、その道である。


 供は、粟田口の茶屋に残した。藤吉郎が、山の上から京を見渡せると告げると、市はすぐ馬を山道へ向けた。長政が供へ待てと言ったときには、黒い馬の尻が木のあいだへ入っていた。


 道が曲がるたび、市の背が木の陰へ消えた。長政が同じところを曲がると、もう次の曲がりへ入っている。姿の見えないあいだも、蹄の音と、馬の荒い息だけは上から聞こえてきた。後ろでは、藤吉郎の馬が石を踏んで後脚を滑らせた。藤吉郎が手綱を引いて立て直すあいだに、前の二騎の音は次の曲がりの向こうへ移っていた。


 木の葉が、落ちはじめていた。赤いものと黄色いものが道に重なり、蹄が踏むたびに乾いた音を立てた。


 風が抜けると、枝に残った葉が続いて落ちてくる。その一枚が、市の肩に乗った。市は払わず、前だけを見て登っていく。葉はしばらく肩に残っていたが、馬が岩を避けて大きく揺れたところで落ちた。


 前を駆ける馬が、突然止まった。


 長政は手綱を引いた。藤吉郎の馬も、その後ろで蹄を止めた。道の先が、明るくなっていた。


 市の馬が、ゆっくり前へ出た。木が開けたところに平らな地があり、その中ほどに古い塚が一つある。塚は草に覆われ、脇に石が立っていた。刻まれた文字は、苔に埋もれて読めない。


 藤吉郎が、将軍塚と呼ばれている塚だと言った。


 市は、塚の脇で馬を止めた。長政が市の脇へ寄り、藤吉郎は一頭ぶん下がったところに並んだ。誰も、馬を降りなかった。風が山の下から吹き上がり、市の髪を後ろへ流した。束ねたところから外れた幾筋かが、頬の横で揺れた。市は手をやらず、眼下を見ていた。


 目が、端から端までゆっくり動いた。動ききると、同じところを戻っていった。


「長政、あれが京か」


 顔は、山の下へ向いたままであった。長政も、京を見るのは初めてである。


「はい」


 市は一度うなずいた。目を細め、口の端を少し上げた。


「案外、小さいのう」


 山の下を、川が流れていた。河原は広い。板と筵で囲った小屋が、ところどころに寄り集まっている。流れの浅いところでは、人と荷が列になって渡っていた。


 川の向こうに、町があった。だが、一つには続いていなかった。屋根の固まりが二つ、離れている。そのあいだには、家が建っていたらしい石の土台が並び、枯れかけた草が隙間を埋めていた。畑になったところもある。人が歩く道だけが、二つの固まりを繋いでいる。


 どこからどこまでが京なのか、山の上からは分からなかった。崩れた土塀の外にも家があり、町のあいだに空いた地にも人が歩いていた。


 藤吉郎が、町の端にある、築地で囲まれた広い場所を指した。


「あれが内裏にござりまする」


 築地は、ところどころ崩れていた。その近くに、黒く焼けた跡が残っている。


「焼けておるところが、公方様の御所にござりまする。この年の初め、三好の者に攻められました」


 市は返事をしなかった。内裏も焼け跡も、ほかの屋根と同じように一度見ただけである。町の内外には、寺の屋根がいくつもあった。大きなもの、小さなもの、瓦の落ちたものが混じっている。その一つから鐘が鳴った。音は風に乗って山へ届き、一度途切れた。少し遅れて、別のところからも鳴った。


 市は、そちらへ顔を向けなかった。


 長政は、登ってきた道の方へ顔を向けた。道はすぐ木のあいだへ入り、その先は見えない。


 小谷を出てから、湖の東の岸を下ってきた。観音寺の山の麓を過ぎ、草津から大津へ出た。逢坂を越え、山科の野を抜けて、粟田口まで来た。止める者は、一人もいなかった。


 六角の頃に荷を改めていた場所には、杭だけが残っていた。道を塞いでいた縄は外され、番の小屋も戸が開いたままである。その前を、米俵を積んだ牛と荷車が通っていた。市が先頭で抜け、長政と藤吉郎が続いた。浅井の旗も掲げず、供も大勢は連れていない。それでも、どこでも道は塞がれなかった。


 小谷から京まで、道は繋がっていた。


 長政の目が、市の背へ戻った。市の背は、すぐ脇にある。戦場では、いつも長政より先を駆けていた。今も、その前に京があった。


「長政。何をぼうっとしておる」


 長政が顔を戻すと、市はまだ京を見ていた。


「・・・申し訳ござりませぬ」


 市は、何を見ていたのかを訊かなかった。首だけを回し、藤吉郎を見た。


「猿。すぐ取れそうじゃな」


 藤吉郎は、すぐには答えなかった。町の口には、小さな旗が立っている。同じ印ではない。二つの町で違い、寺の門にも別の旗があった。市が石部で追ったような、大将の大旗は見当たらない。


 一方の町へ入っても、もう一方は残る。町の中へ入っても、寺の塀の内側までは見えない。大きい旗を倒せば周りが崩れた石部の野とは、形が違っていた。信長は、市と京を取ってこいと言った。道はここまで通っているが、市が馬を向ければよい大将の場所は、山の上からは見つからなかった。


 市が、藤吉郎を見ていた。藤吉郎は、京から目を戻した。


「はっ」


 市は一度うなずき、もう一度だけ京を見た。見ていたのは、短いあいだであった。


「よし。帰って戦の支度じゃ」


 手綱を引く。黒い馬の首が、山道へ向いた。


「長政、戻るぞ」


「はい」


 市は、もう京を見ていなかった。馬の腹を蹴り、来た道へ入っていく。


 落ち葉が跳ねた。


 黒い馬が、斜面を駆け下りていく。登りよりも速かった。岩の際を抜け、木の根をまたぎ、曲がった先で姿が消える。


 長政が続いた。藤吉郎は、その場に一呼吸だけ残った。京をもう一度見てから、馬の向きを変えた。


 三騎の蹄の音が、山の下へ遠ざかっていった。

第四章「甲賀の里」はここまでです。お読みいただき、ありがとうございました。


次話から第五章「三好」が始まります。

第五章からは、毎日20時50分に1話ずつの更新となります。

引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。


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