【第四章 甲賀の里】第五十七話 藤吉郎の進言 止めて止まる
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日野の三人が小谷を下りていくと、木下藤吉郎は長政の部屋へ向かった。
明日から、南近江の道を見て回るつもりであった。信長には、市と京を取ってこいと言われている。その京へ続く道を、まだ一度も自分の足で歩いていない。
長政の部屋は、襖が開け放してあった。縁の先が庭である。長政は机へ向かい、さきほど蒲生たちから受け取った書付を開いていた。
藤吉郎は、敷居の外で膝をついた。
「浅井様。南近江の道を、見てまいりとうござりまする」
長政が、書付から顔を上げた。
「いつ、発たれまするか」
「明日にも」
答えると、長政は海北に申しつけ、道を知る者を一人つけると言った。
用は済んだ。藤吉郎は礼を述べ、頭を下げた。そのとき、庭から声がした。
「えい」
市が、白い砂の上で薙刀を振っていた。袴に、たすき掛けである。振り下ろし、すぐに返して横へ払う。足が一歩出て、その上へ体が乗る。そこからまた振り上げる。
止まらなかった。
庭の端には、三田村と大野木がいる。その外では、兵が何人か垣から首を伸ばしていた。市が振るたびに、並んだ頭が同じ方へ動いた。
三田村と大野木は、市が足を出すたびに、立ったまま体の向きを変えていた。戦では、この二人が市の両脇へつく。その後ろに騎馬が続き、さらにその後ろから歩兵が走る。市から離れるほど、同じ動きは遅くなる。
藤吉郎は、外れの井戸のことを思い出した。市が柄杓を口元へ上げ、三田村が手で塞いだ。あの手が少し遅ければ、市も筵の上へ運ばれていたかもしれない。
浅井の兵は、市が前にいるから走る。長政が書状を書き、国衆が浅井へ降るのは、市が勝ったあとのことである。
市がいなくなれば、京へは行けない。
藤吉郎が振り返ると、長政も筆を持ったまま庭を見ていた。
「浅井様。お市様は、毎度、敵へまっすぐ行かれまするな」
「さようにござりまする。それが、何か」
「あぶのうござりまする」
長政は、筆を置いた。
「市を止めよと申されまするか」
「止めて止まるお方ではござりませぬ」
藤吉郎は、すぐに答えた。清洲にいた頃の市なら、信長が止めれば不服な顔をして止まった。今は、止めても止まるまい。
「では、いかがせよと申されまする」
「止められぬなら、周りが追いつくほかござりませぬ」
長政が、藤吉郎を見た。目をそらさず、何も言わなかった。
「お市様の周りは、精鋭ぞろいでござりましょう。なれど、その周りは。また、その外は」
藤吉郎は、垣の向こうの兵を見た。
石部では、井戸の水で兵が倒れた。起き上がれない者は郷へ帰され、列は短くなった。秋には、残った兵も刈り入れのために帰った。次に集めたとき、同じ者が来るとは限らない。
「浅井の軍は、冬も、田の忙しい時も出られませぬ」
「それが普通にござりましょう」
本当に、そう思っている声であった。
「織田では、兵を田から離し、銭で養いはじめておりまする。郷へ帰さねば、いつでも動かせまする。同じ者が同じ者とおれば、教えたことも積み上がる」
集めるたびに槍の持ち方から教え直すこともない。誰が市の後ろを走り、誰が荷を守るのかも、出る前から決めておける。
長政の膝が、少し前へ出た。
「浅井様も、鍛えなされ。お市様に負けぬ兵を育てなされ。強うなった兵は、お市様の楯となり、刀となりまする」
長政の目が、庭へ戻った。
市は、まだ振っていた。横へ払ったところで笑い、三田村へ何か言った。三田村が頭を下げている。
「そのような大事を、わたしにお教えくだされて、よろしゅうござりまするか」
織田の家中のことである。よその当主へ話してよいことではない。
「上様に、京を取れと申しつかりましてござりまする」
藤吉郎は、少し間を置いた。
「それに、お市様に死なれたら、わしが上様に殺されてまうわ」
顔じゅうで笑った。長政は笑い返さなかった。
庭から、また声がした。
「えい」
藤吉郎は両手をつき、頭を下げた。下げたときには、もう笑っていなかった。
「差し出がましきことを申しました。お忘れくだされ」
◇
長政の部屋を出ると、藤吉郎は城の坂を下りた。南近江へ発つ前に、見ておきたいところがあった。
小谷の麓、谷の奥に、夏の初めにはなかった建物がある。板屋根の低い建物で、煙が一本上がっていた。近づくと、槌の音が聞こえた。
開け放した表から覗くと、火床に火が入っていた。金床の前で槌を振っているのは、政直である。清洲の鍛冶町から、長政が連れてきた男であった。
政直は赤い鉄を水へ入れた。音が立ち、湯気が上がった。その向こうで藤吉郎に気づき、槌を置いた。
「打てておるか」
「はい。北近江の鉄にも、慣れてまいりました」
壁には、鉄箸と槌が清洲の工房と同じ順で掛けてある。奥の棚には白鞘が一振り置かれ、その下に薙刀の刃が並んでいた。
「上のものは、殿の差料にござりまする。最初に打てと仰せられたもので、先日仕上がりました」
政直は、棚の脇の箱を開けた。中には、折れた薙刀が重なっていた。刃の中ほどで折れたもの、元から割れたもの、刃先の欠けたもの。十本を超えている。
「野村殿が、持ってこられまする。石部のものもござりまする」
政直は、元から割れた刃を灯へかざした。
「上から叩きつけ、すぐに返して横へ払う。そのとき、元へ一番力がかかりまする。力で振っておられるのではござらぬ。速すぎて、刃がしなう暇がないのでござる」
藤吉郎は、庭で見た市の動きを思い出した。振り下ろし、返し、横へ払う。力んだところはなかった。
「元を厚うすればよいのではないか」
「厚うしたものも打ちました。折れませぬが、重うござる」
政直が、箱から太い刃を取り出した。
「一度、野村殿へお渡しいたしました。何も仰せられず戻ってきて、次には持っていかれませなんだ。重ければ、あの返しができませぬ」
薄ければ欠ける。厚ければ遅くなる。政直は、その間を探していた。
市から、重いとも遅いとも言われたのではない。野村が次に持っていかなかった。それだけを答えとして、厚さを変え、また打っている。
「お市様には、お会いしたことは」
「ござりませぬ。遠くから、お姿を見たこともござりませぬ。この箱だけにござる」
表から、野村が入ってきた。藤吉郎へ頭を下げると、棚から仕上がった薙刀を二振り受け取った。一振りずつ握りを確かめ、刃を少しだけ見て納める。
「殿の申しつけにて、お市様の替えにいただいてまいる。替えは、いくらあっても足り申さぬ」
政直が、わずかに口を開いた。
「お市様は、これを誰が打ったものかは」
「お訊きになりませぬ。よう斬れれば、それでよいお方にござる。殿も、お市様には何も申されませぬ」
野村は、薙刀を抱えて坂を上がっていった。
藤吉郎は、清洲の夜を思い出していた。誰が使うのかと政常に訊かれ、長政は、市に、と言いかけた。藤吉郎が袖を引くと、わたしが要るのでござりまする、と言い直した。
棚の上には、その長政の刀がある。下の段は、薙刀二振りぶん空いていた。
「浅井様は、ここへは」
「ときどき見えまする。夜に、供も連れずに」
政直は、火床の脇を見た。隅に筵が一枚敷いてある。
「そこへ座って、おれが打つのを見ておられまする。何も申されぬまま、半刻ほどで帰られることもござる」
藤吉郎は、筵を見た。市には何も言わず、折れた薙刀を持ち帰らせ、次を打たせている。
庭では、市の速さへ兵を追いつかせる話をした。ここでは、その速さに耐える刃を作っている。
どちらも、市を止める話ではなかった。
政直が火床へ戻った。赤い鉄を取り出し、金床へ置く。
藤吉郎が表へ出ると、背中で槌の音が始まった。
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