【第四章 甲賀の里】第五十六話 日野の三人 誰が作る
一五六四年 秋 近江 日野
蒲生賢秀は、小谷から日野へ戻った夜、永原重康と目賀田綱清を屋敷へ呼んだ。
二人とも、すぐに来た。三人で奥の間に座った。酒は出さなかった。出せば長く座ることになる。長く座れば、話が脇へそれる。
蒲生は、南近江の絵図を広げた。家に古くからあるもので、六角の頃から、村や道が何度も書き足されている。
「誰が、治めるか」
二人とも答えなかった。
「さて、それは前例がござらぬ」
目賀田が、絵図を見たまま言った。
「六角の頃、本家の地は本家の者が見ておった。家臣が預かったことは、身共の知る限り、一度もござらぬ」
「前例がないなら、作ればよいのでは、と・・・」
「誰が作る」
目賀田に見られて、永原は黙った。
蒲生は、絵図の繖山に目を落とした。山の上には、観音寺の城がある。
「観音寺は、誰が預かる」
今度は、誰も口を開かなかった。
六角の城である。六角の家臣であった者が入れば、その者が六角に成り代わったと見られる。ここにいない家々が、黙ってはいない。
蒲生も入りたくなかった。永原も、目賀田も同じであろう。二人とも絵図の山を見ようとしない。
三人は、浅井に所領を安堵されたばかりである。その三人のうち誰かが、六角の本城と本家の地を一つにして預かれば、降った途端に褒美を求めたと見られる。残る二人も、その者の下についたと思われかねなかった。
浅井から、誰が上かを決めよと言われたのではない。市は、詳しい者に決めさせればよい、と言っただけである。
だからこそ、誰も自分の名を出せなかった。
蒲生は、繖山から指を動かした。山の下には平野が広がっている。日野に近い村があり、愛知川に近い村がある。湖の水が入り込むところには、安土の港があった。
「分けてはどうか」
二人が顔を上げた。
「本家の地を一つのまま預かるから、角が立つ。日野に近い村々は、それがしが預かる。村の者の顔も知っておる」
蒲生は、自分の家に近いところだけを囲むように指を動かした。村と村のあいだを通り、六角の頃から蒲生が見てきた地のところで止める。
指を、平野の反対の端へ移した。
「愛知川に近い村々は、目賀田殿が」
「・・・身共の地と、川を挟んで向かいにござるな」
目賀田は、指で村の名を二つ確かめてから、うなずいた。蒲生は、安土の港を指した。
「港は永原殿に。野洲の湖岸におる永原殿が、舟のことは一番詳しい」
永原は、港から湖岸へ延びる線を目で追った。
「港だけでは、荷を置くところがござらぬ。この二村も、共に預からせていただきたい」
永原の指した村は、港のすぐそばにあった。蒲生は目賀田を見た。目賀田が異を唱えないのを待ってから、その二村を永原の側へ入れた。
三人の名の下へ、村が分かれていった。誰かが多く取らぬようにするのではない。それぞれが、すぐに見に行けるところへ寄せていく。絵図の上にあった本家の地が、少しずつ三つに割れていった。
「して、観音寺は」
永原が訊いた。
蒲生は、繖山の上へ指を戻した。置いたまま、しばらく動かさなかった。
「誰も預からぬ。浅井が直に見ればよい」
二人が、蒲生を見た。
浅井は北近江の家である。南近江の城へ置く者がいるのかどうか。それが、この案の弱いところであった。
だが、ほかに案は出なかった。その夜のうちに、蒲生が書付へまとめた。
書き終えると、三人で初めから読み直した。村が一つ抜けていて、目賀田が指摘した。永原が港の名の横へ、預かる二村を書き足した。
観音寺の行だけは、最後まで短かった。
一五六四年 秋 近江 小谷
三人が、また小谷へ上がると、前と同じ評定の間へ通された。上座には長政が座り、隅には小柄な男が控えていた。庭からは、薙刀が風を切る音と、市の声が届いている。
「本家の地の治め方、三人で考えてまいりました」
蒲生は書付を前へ置いた。取次の者が、長政の膝元へ運んだ。
長政は、一行ずつ読んだ。蒲生の預かる村、目賀田の村、永原の港。観音寺のところで目が止まり、最後まで読むと、書付を膝の前へ置いた。
何も言わなかった。
「えい」
庭の声が響いた。
蒲生は、長政の顔を見ていた。この前、六角の本家の地を誰に治めさせるのかと訊いたときと同じである。目が、畳へ落ちていた。
永原が、膝の上で手を組み直した。目賀田は、口を結んだまま前を見ている。
庭の声が止んだ。廊下を、踵が板を叩く音が近づいてきた。
襖が開いた。
市が入ってきた。袴に、たすき掛けである。右手に薙刀を立て、額には汗が光っていた。
市は三人を端から順に見た。前に会ったことを確かめるような目であった。
「どうじゃ。決まったのか」
蒲生の背が伸びた。決まったら教えよ、と言ったことを、市は覚えていた。
名を呼ばれたわけではない。それでも、前に見た三人と、今いる三人が同じだと分かっている目であった。
「これにござりまする」
長政が、書付を差し出した。市は薙刀を脇へ抱え、右手で開いた。
目が、書付の上を一度通った。
「ふうん。ようできとる」
一行も読んでいない。
それでも、永原が長く息を吐いた。目賀田の肩も下がった。蒲生も、膝の上の手から力が抜けていた。
「これで、やってみい」
市は、書付を長政へ返した。長政は受け取り、膝の前へ置いたが、まだ口を開かなかった。
「なんじゃ。やらせてみて、だめなら変えたらよかろう」
市が、三人を見た。
「のう」
永原が頭を下げた。蒲生は下げかけて、何に対して下げるのか分からなくなり、途中で止まった。
市の眉が寄った。
「長政、まだ何か悩んでおるのか。申してみい」
「南近江の差配にござりまする。浅井が直に見るにも、南近江へ置く者が要りまする」
「なんじゃ、そんなことか」
市は、蒲生たちへ向き直った。
「わしらは、おぬしらの土地のことはよう分からん。おぬしらは、この地にずっとおるのであろう」
「・・・さようにござる」
蒲生の家は日野にいる。永原も、目賀田も、それぞれの地に長くいる。何を訊かれているのかは分からなかったが、答えはそれしかなかった。
「ならば、おぬしらのほうが詳しいということじゃな」
「・・・はあ」
今度は、永原が答えた。
市はうなずいた。一つずつ確かめ終わった顔であった。
「では、おぬしらに任せる。うまく治めてみい」
蒲生は口を開きかけた。だが、市はもう身を返し、薙刀を右手に持ち直していた。
「城は、おぬしら全員で掃除しておけ」
襖を開け、廊下へ出る。
「使わんと朽ちるからのう」
襖が閉まった。
蒲生は、閉まった襖を見ていた。観音寺を三人で預かれ、と市は言った。一人が城へ入れば角が立つ。三人なら、誰も六角に成り代わらない。
永原へ目を向けると、向こうもこちらを見ていた。目賀田は膝の上の手を開き、また組み直した。
掃除をしておけ、と言っただけであった。
長政が三人へ向き直り、頭を下げた。
「蒲生殿、永原殿、目賀田殿。お頼み申しまする」
三人も頭を下げた。
「それから、もう一つ」
長政は、市の出ていった襖から目を戻した。
「南近江の家々へ書状を出しておりまする。返事のない家の中には、迷うておられる家もあろうかと存じまする」
蒲生にも、いくつか思い当たった。六角へ義理を立てる家がある。北近江の家の下に立つことを、面白く思わない家もある。
「そのような家があれば、口を添えていただけませぬか。所領はそのまま。一石も取りませぬ。それだけを、お伝えくだされば」
浅井の使いが言うのと、六角の宿老であった蒲生たちが言うのとでは、受け取られ方が違う。
蒲生は、永原と目賀田を見た。二人とも、蒲生を見返した。
小谷の廊下で顔を合わせたとき、三人は誰にも知らせず、別々に来ていた。今は、同じ書付に名を並べ、南近江の家々へ同じ話をしに行こうとしている。
「・・・承知つかまつった」
蒲生が頭を下げると、二人も続いた。
この冬、南近江は浅井のものになった。
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