【第四章 甲賀の里】第五十五話 小谷の客 こやつらは、誰じゃ
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蒲生賢秀は、小谷の門の前にいる。
蒲生は日野で浅井の書状を受け取ると、供を五人だけ連れ、湖岸の道を小谷へ向かった。多く連れれば、構えて来たと見られる。少なすぎれば、軽く見られる。五人がよいところであった。
城の門で名を告げると、評定の間の手前まで通された。廊下には、先に永原重康がいた。
蒲生は足を止めた。永原も顔を動かし、口を開きかけて閉じた。二人とも何も言わなかった。
廊下の向こうから、目賀田綱清が来た。二人を見ると足を止め、それから何もなかったように蒲生の隣へ並んだ。
三人とも示し合わせていない。蒲生は誰にも言わずに来た。永原と目賀田の顔にも、互いがいるとは知らなかったことが出ていた。
来てみたら、三人になっていた。
蒲生の家は、蒲生郡の日野を治めている。鈴鹿の山裾に開けた谷で、城は中野にある。観音寺城と同じ郡にあり、父の代から六角の軍を預かってきた家であった。
永原の家は、野洲郡の永原に城を構えている。野洲川の下流、湖に近い平地で、田の広がる地である。
目賀田の家は、愛知郡の目賀田に城を持つ。愛知川の南にあり、川を越えれば北近江に近くなる。六角の領分の、北の境に近い地を預かってきた家であった。
三人とも六角の宿老であり、家中で名を出せば話が通る家であった。そして三家とも、当主が討たれた戦へ兵を出さなかった。
理由は、それぞれ付けてある。それでも兵を出さなかったことは変わらない。蒲生は、永原と目賀田がどのような理由を付けたのか知らなかった。ここで訊くことでもなかった。
その後、六角の家は崩れた。倅を担いだ者も石部で散り、倅自身も甲賀から消えた。仕えるべき家は、もうなかった。
そこへ浅井から書状が来た。今の所領を認めることと、求める役目が書いてあった。蒲生は、紙を畳んでは開き、何度も読んだ。浅井は、三家が兵を出さなかったことを知っている。咎めるために呼ぶのなら、条件までは書かない。
それでも、確かめねばならなかった。
廊下の外から、声が聞こえた。張り上げる声ではなく、短く息を吐く声であった。
「えい」
少し間を置いて、また聞こえた。風を切る音が続く。何かを振っている。永原はそちらを見たが、目賀田は見なかった。
◇
襖が開き、三人は評定の間へ入った。二十畳ほどの間である。上座の壁に槍掛けがあったが、槍は一本も掛かっていなかった。
上座に若い男が座り、その脇が空いている。浅井長政であった。蒲生が近くで見るのは初めてである。自分より八つ九つは若く見えた。
間の隅には二人控えていた。一人は小柄で、浅井の者とは違う身なりをしている。もう一人は薬売りのような姿であった。どちらも、蒲生には名が分からなかった。
三人が下座へ並ぶと、襖の向こうから声が届いた。廊下で待っていたときと、同じ間で続いている。
「えい」
長政は、そちらを見なかった。三人の顔を見ていた。
「蒲生殿、永原殿、目賀田殿。ようお越しくださりまする」
座ったまま、頭を下げた。蒲生も下げ返した。
殿、と呼んだ。降る者を、殿と呼んでいる。
「浅井のために働いてくださりませぬか。所領は、今のまま安堵いたしまする。一石も取りませぬ」
蒲生は黙って聞いた。永原も目賀田も、膝の上から手を動かさなかった。
「出していただくのは、軍役と、陣夫と、兵糧と、普請にござりまする」
書状にあったことと同じである。長政は、そこで言葉を切った。
蒲生は待った。このあとに、あの戦のことが来るはずであった。なぜ兵を出さなかった。いつから当主を見限っていた。そう問われたとき、どこまで答えるかも考えてきた。
来なかった。
長政は、三人の顔を見ている。それ以上、何も言わなかった。襖の向こうから、また風を切る音がした。
「えい」
蒲生は、膝の上の手を握った。何も問われないまま決めねばならなかった。
「書状の通りに、していただけるのでしょうな」
「相違ござりませぬ」
答えるまでに間がなかった。蒲生は長政の顔を見たが、嘘をついているようには見えなかった。
永原が、蒲生を見ていた。目賀田は前を向き、口を固く結んでいる。
蒲生は、長政へ向き直って頭を下げた。
「・・・お受けいたしまする」
永原が続いた。蒲生より深く頭を下げ、そのまま上げなかった。
「・・・はあ。それがしも」
目賀田は、すぐには動かなかった。蒲生が頭を上げる頃になって、ようやく下がった。
「身共も、お受け申す」
「かたじけのうござりまする」
長政が、三人へ頭を下げ返した。蒲生は頭を上げ、そこで初めて息を吐いた。
あの戦のことは、最後まで出なかった。出なかったことをどう受け取ればよいのか、蒲生にはまだ分からなかった。
国衆の所領は、これで決まる。だが、六角の本家が直に持っていた地は残る。観音寺城のある繖山、その麓の町、安土の港、蒲生平野の村々である。国衆は自分の地を認められれば済むが、本家の地には、安堵する相手がいなかった。
「・・・ひとつ、お伺いしてもようござりまするか」
「なんでござりましょう」
「六角の本家の地は、いかがなされまするか」
「そこは浅井が抱えまする。それでよろしゅうござりまするか」
迷った間はなかった。蒲生は頭を下げたが、訊きたいのはその先である。
「では、どなたが治められまするか」
長政は答えなかった。
条件にも、本家の地を抱えることにも、すぐ答えた男である。今は答えない。蒲生を見ていた目が畳へ下がり、膝の前で止まっていた。
永原が蒲生を見た。目賀田も目だけを動かした。庭から聞こえていた音は、いつのまにか止んでいた。
廊下を、速い足音が近づいてきた。踵が板を叩いている。襖が開いた。
女が、薙刀を持って入ってきた。片手で柄の中ほどを握り、刃を立てている。袴にたすき掛けで、具足はつけていない。額には汗が光っていた。
蒲生は息を止めた。庭で薙刀を振っていた女である。
噂は聞いていた。具足をつけずに馬で駆け、兵の列を抜けて大将だけを取る。六角の当主を本陣で討った女である。南近江で、その噂を知らない家はなかった。
浅井の奥方、市であった。
市は、長政と間の隅の二人を見た。それから下座の三人へ目を移した。何を話していたのかは訊かなかった。
蒲生と目が合った。
蒲生は、そらせなかった。市は蒲生の顔を一度だけ見た。知らない顔を見る目であった。それ以上でも、それ以下でもない。
「なんじゃ、まだ何か悩んでおるのか」
長政が顔を上げた。
「本家の地を、誰に治めさせるかにござりまする」
蒲生が訊いたときには答えなかった。市が訊くと、長政は答えた。
市は、少し首を傾けた。下座の三人を見る。
「こやつらは、誰じゃ」
「六角の家中であった方々にござりまする」
蒲生の背が動いた。永原が下を向き、目賀田の肩が上がったまま止まった。
市は、三人を端から一人ずつ見た。見て、それだけであった。
「では、この三人に決めさせればよいではないか。詳しいのはこやつらであろう」
蒲生の膝が動いた。何も言えなかった。
「決まったら教えよ」
市は身を返し、出ていった。振り返らなかった。足音が廊下を遠ざかり、やがて庭から声が聞こえた。
「えい」
間の中が静かになった。蒲生は、膝の上の手を見た。汗で濡れている。
市は、あの戦のことを何も言わなかった。兵を出さなかったことも、六角の家の者であったことも問わない。知らない顔として一度見て、詳しい者に決めさせればよいと言って出ていった。
「・・・さて、それは前例がござらぬ」
目賀田が、誰にともなく言った。声は小さかった。
「いや、それは、その」
永原は、言いかけたまま続けられなかった。
蒲生は長政を見た。畳へ下がっていた目が、三人へ戻っている。
「蒲生殿、永原殿、目賀田殿。お考えいただけまするか」
答えを聞きに来ただけであった。自分たちが決める側へ回るとは思っていない。六角の当主へ兵を出さなかった三人が、六角の城を誰に預けるか決めることになる。決めれば、その後も関わらずにはいられない。誰も引き受けたくない話であった。
蒲生は永原を見た。永原も蒲生を見ていた。目賀田は口を結び、前を向いている。
「えい」
蒲生は、長政へ向き直って頭を下げた。
「・・・承りました」
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