【第四章 甲賀の里】第五十四話 望月の報せ 茶々、それはわしのじゃ
一五六四年 秋 近江 石部
望月出雲守は、陣幕の中で膝をついていた。
朝の風が、冷たくなっていた。野の稲は黄色くなり、露を含んだ穂が重く垂れている。
浅井に味方してから、手の者を三人、馬の世話、飯炊き、薪運びに紛れさせている。馬のそばにいる者は、市がいつ乗ったかを見る。飯炊きに入った者は、何をどれだけ食べたかを見る。薪を運ぶ者は、陣幕の外を行き来する。それを知るのは、長政と藤吉郎だけであった。
長政は台の向こうに座り、藤吉郎が幕の端に控えていた。
「お市様のことを、申し上げまする」
長政が顔を上げた。
「今朝は、日の出の前に起きられました。野を三度往復され、川の手前で馬を止めて、しばらく山を見ておられました」
長政は身を乗り出してはいなかった。それでも、望月が話しているあいだ、一度も目を離さなかった。
「戻られてから、飯を椀に二杯。それから薙刀を持って、野で振っておられまする。今も、振っておられまする」
「以上にござる」
「かたじけのうござりまする」
長政が頭を下げた。市が飯を何杯食ったか。それを聞いて頭を下げる理由は、望月にはまだ分からなかった。何の役に立つのかも分からない。それでも、頼まれた仕事である。望月は、見たままを報せた。
「もう一つ、申し上げまする。六角の倅が、おらぬようになりました」
長政の顔が変わった。変わったのは、目だけであった。
「夜のうちに、甲賀の奥の寺を出たと聞いておりまする。供は、十に足りぬ数にござった」
「どちらへ」
「分かりませぬ。追ってはおりませぬ」
長政は、なぜ追わなかったのかを訊かなかった。望月も、言わなかった。
追う理由がない。
六角の倅は、甲賀の主ではない。甲賀が仕えた家でもない。銭を払っているあいだだけ、甲賀の者は倅の仕事をした。払いは夏の初めから細くなり、稲が色づく頃には、ほとんど来なくなっていた。
甲賀は倅を売ったのではない。食わせるのをやめただけである。払う者のいない仕事はしない。倅にも分かっていたから、夜のうちに出ていった。
どの道を行ったのかは、誰も見ていない。見る理由がなかった。
「南近江には、浅井様を止める者が、おらぬようになり申した」
長政は、台の上の絵図を見た。この夏につけた書き込みが残っている。しばらく見ていると、幕が上がった。
朝の光の中に、市が立っていた。右手に薙刀を持ち、額に汗が光っている。息はまだ上がっていた。野で薙刀を振っていると、望月が報せたとおりである。
市は幕の中を見回した。望月を一度見たが、何をしに来ているのかは訊かなかった。兵の一人がいるというように、すぐ長政へ目を移した。
「次はどこじゃ」
「もうおりませぬ」
市の眉が寄った。台の前まで来ると、座っている長政の頭の上に薙刀の石突きがあった。
「どういうことじゃ」
「・・・六角は、片付きましてござりまする」
「片付いたとな。いつのまに大将を取ったのじゃ」
長政は答えなかった。市が一歩寄った。
「おぬしが討ったのか」
長政は、また答えなかった。市の目が細くなった。頬が赤くなり、薙刀の柄を握る手に力が入った。
「わしに黙って、勝手に手柄を取りおって」
幕の外の音が止まった。荷を担ぐ足も、木を割る手も止まり、少ししてから何事もなかったように動き出した。
討っておりませぬ。倅は逃げました。そう言えば済む。望月は長政を見た。自分が報せたことを、そのまま市へ伝えればよかった。
「・・・申し訳ありませぬ」
長政は台に手をつき、頭を下げたまま止まった。望月は、その頭を見ていた。なぜ謝るのか、分からなかった。
望月は、幕の端へ目をやった。藤吉郎も、長政が討っていないことを知っている。それでも膝の上に手を置き、目を伏せたまま動かなかった。
市は、長政の下げた頭を見ていた。やがて眉がゆるみ、薙刀を握る手から力が抜けた。
「まあ良いわ。勝ったなら、ここにいても仕方ないのう」
市は薙刀を肩へ担ぎ直した。もう幕の外を見ていた。
「小谷に帰るぞ。長政、支度せい」
「はい」
長政が頭を上げたとき、市はもう幕を出ていた。外で、帰るぞ、と声がした。誰へ言ったのでもないのに、その声だけで陣じゅうが動きはじめた。
陣の音が変わった。幕を畳む音、駄に荷を括る音、馬を引く音が、次々に重なった。望月は膝をついたまま聞いていた。長政がなぜ謝ったのかは、まだ分からなかった。
一五六四年 秋 近江 小谷
海北綱親が長政に呼ばれたのは、石部から戻って間もない頃であった。
兵は村へ帰り、稲の刈り入れに入っていた。家臣も郷へ戻り、留守のあいだに溜まったものを片づけている。訪ねてくる者もなく、城は静かであった。
廊下を二つ折れ、庭に面した部屋へ入る。襖は開け放され、秋の風が縁から入っていた。長政は机の前に座っている。机には南近江の絵図が広げられ、その脇に書状の束が置いてあった。
厚かった。
「お呼びにござりまするか」
「うむ」
長政は絵図を見たままであった。手を束の上へ置き、海北の方へ押した。
「頼む」
海北は、束を両手で受け取った。包みの表には、南近江の家の名が一つずつ書いてある。その下にも、その下にも、違う家の名があった。薄いものと厚いものがあり、折り方も違っている。中を見なくても、同じ文を写したものではないと分かった。
六角を攻める前にも、同じことをした。南近江の家へ文を運んだ。あのときの束は片手で持てた。今は、両手で持たねばならなかった。
海北は長政を見た。あのときは、束を渡すときに海北の顔を見ていた。今日は顔を上げない。目は、絵図の中の一つの山にあった。繖山である。山上には、六角の本城であった観音寺城がある。山の麓を街道が通り、湖の入り江には港があった。
長政の目は、城の印から港へ動き、野へ移り、また城へ戻った。それを、ゆっくり繰り返している。指は絵図に触れていなかった。
海北は、何を見ているのかとも、何を考えているのかとも訊かなかった。書状を運ぶのが海北の役である。
◇
庭から声がした。市であった。
「茶々、それはわしのじゃ。放せ」
小さい子の笑う声が続いた。長政が顔を上げ、庭の方へ目をやった。縁の先までは、目だけでは届かない。何を取り合っているのかも、そこからは見えない。それでも首は回さず、すぐに絵図へ戻した。
「放せと言うておろう」
市も笑っていた。何かが草の上を転がり、小さい足音が追っていく。乳母が何か言い、抱かれている赤子の声が混じった。
長政が、また顔を上げた。今度は少し長かった。それでも、絵図へ戻した。
小谷にいるとき、市の声がすれば、長政はいつも顔を向けていた。書き物の途中でも、評定の最中でも、そのまま見ていた。海北は、それを何度も見ている。
今日は、戻している。
「こら、初に触るな。たたくでない。そっとじゃ」
茶々が笑った。次いで、赤子の泣く声が上がった。
長政の腰が浮いた。
浮いたところで止まり、それから下りた。
「ほれ、泣いてしもうたではないか」
市の声は、まだ笑っていた。乳母が初をあやす声が重なる。
長政は絵図へ目を戻した。繖山から離れなかった。
庭の声が遠ざかっていった。市が、子を連れて奥へ入ったらしかった。海北は書状の束を持ち直した。
「返事は、いかがいたしましょう」
「要らぬ」
長政は、顔を上げなかった。目も、絵図から離れなかった。
海北は頭を下げ、束を両手で持って部屋を出た。一度に出さず、出す時をずらす。道も分ける。湖岸を行く者と、船を使う者を選ぶ。同じ者は続けて使わない。数が多い。誰にどの書状を持たせるか、日が落ちる前に決めねばならなかった。
廊下の角で、海北は一度だけ振り返った。長政は机の前に座り、絵図の繖山を見ていた。
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