【第四章 甲賀の里】第五十三話 薬売りの男 何をごちゃごちゃと
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望月出雲守は、薬売りの形で浅井の陣へ入った。
背には薬の箱を負っている。中には、本当に薬が入っていた。甲賀の者が山を出るときは、たいていこの形になる。村で薬を売り、山の外の話を拾って帰る。
前を歩くのは藤吉郎であった。織田から来た男である。陣の見張りは、その顔を見ると何も訊かずに通した。
望月は、歩きながら陣の中を見た。見張りは、夏の初めより増えている。荷駄は陣の外れから真ん中へ移され、俵が幕に囲まれて積んであった。外れの井戸には板が渡され、縄まで掛けてある。もう一つの井戸には、見張りが二人立っていた。
荷駄へ火をつけた者も、井戸へ入った者も、望月の手の者である。今は二人で立っている見張りの脇を、望月は薬の箱を背負って通った。
その手の者が忍び込む姿を、陣の誰も見ていない。
陣幕の脇に、黒い馬が繋いであった。報せを流した村へ、何度も駆けてきた馬である。来るところも、誰もいない村を走り回るところも、望月は山の上から見ていた。
手の者は、黒い馬が来る前に村を出て、家の裏から山へ入る。入る道は一つではない。木の間から村を見下ろしていると、女が薙刀を立てたまま駆け込んできた。具足もつけていなかった。
速かった。
初めの村では、竈の火を落とす間もなかった。最後の一人が木の間に隠れたとき、黒い馬はもう村の入口にいた。二度目からは、それを見込んで早く出した。
女は、どの村にも先頭で入った。後ろの騎馬は離れている。家の陰に人を置いておけば、横から突けた。
置かなかったのは、あの女に届かないと思ったからではない。仕事が、村を空にすることであったからである。
井戸へ入った者からは、女が水を飲む寸前に止められたと報せが来た。望月は、それを聞いて何も言わなかった。
あの女がどれほど速くても、山の中へは馬で入れない。道は分かれ、入った者は木の下へ消える。山にいる限り、甲賀までは届かない。
甲賀は、この野洲川をさかのぼった先の山あいにある。川の上へ行くほど谷は狭まり、そのあいだに田と郷が点々と散っている。奥の果ては鈴鹿の山で、峠を越えれば伊勢へ出る。山続きには伊賀がある。京から伊勢へ下る東海道も、石部から水口を抜け、この山のあいだを通っていく。
郷ごとに家があり、家ごとに山と田を持っている。束ねる主は、いない。事があれば、家の者が寄り合って決める。望月の家も、その一つであった。
◇
陣幕の前で藤吉郎が止まり、幕を上げた。望月は中へ入った。
灯が一つ置かれ、台の上に絵図が広げてある。その向こうに、若い男が座っていた。陣の中を変え、村の道を塞がせた者である。
浅井備前守である。
浅井といえば、女だと聞いていた。北近江でも六角の残りのあいだでも、当主の名を口にする者は少なかった。
幕の端に、もう一人いた。女であった。
あの女である。近くで見ると、思っていたより若い。袴にたすき掛けで、髪を後ろに束ねている。膝へ薙刀を横たえ、刃を布で拭っていた。
望月が入っても、市は顔を上げなかった。長政は、座ったまま頭を下げた。
「浅井備前にござりまする。望月殿、ようお越しくださりまする」
望月も膝をつき、薬の箱を脇へ下ろした。
「甲賀の望月にござる」
頭を上げると、長政がこちらを見ていた。探るような目ではなかった。藤吉郎は、その脇に控えている。女の手は、止まらなかった。
「浅井に属していただきとうござりまする」
望月は、すぐには答えなかった。この夏に手の者が何をしたかを、長政は知っている。知ったうえで、咎めもせずに属してくれと言っていた。
「手前どもは、どこにも属したことがござらぬ。属せば、次は兵を出せと仰せられましょう」
「土地はそのまま安堵いたしまする。一石も取りませぬ」
「安堵と申されるが、それは浅井様が近江におられる間の話にござろう。六角様も、同じことを仰せられた」
長政が黙った。浅井がいつまで近江にいるかを、この男は約束できない。約束できないことを、約束するとは言わなかった。
布の動く音だけが、幕の中に残った。刃の上を端から端まで、同じ速さで往復している。望月が長政の返事を待っているあいだも続き、それから止まった。
女が薙刀を持って立った。望月の前まで来ると、三歩のところで止まった。
「何をごちゃごちゃと」
目が合った。山の上から見ていたとき、この女の目はいつも村の中にあった。こちらを見たことはない。今は、まっすぐ望月を見ている。
浅井の奥方、市である。
「望月というたか。われらはこれより京を取る。そうしたら甲賀は、われらの領地に挟まれることになるじゃろ」
「そうなれば、おぬしらはどうするのじゃ」
「京などと。そんな夢見事を」
市は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。望月の方へ一歩寄った。
「夢ではない。現に六角も追いつめておるではないか。おぬしらが邪魔するから、てこずっておるということじゃろ。なあ、長政」
「はい」
市は長政を見なかった。望月を見たままである。
「であれば、おぬしらが味方すればよいだけのことではないか。のう、望月。わしらに味方せい」
望月は黙った。長政が約束できずに黙ったものを、市は何も約束せずに押してくる。筋は通っているが、何も差し出してはいない。
「しかし・・・手前どもは、いままでどこにも属さなんだ。それが甲賀じゃ」
「ええい、まどろっこしい。おぬしらはおぬしらでおればよいではないか。協力するのか、せぬのか。どっちじゃ」
望月は、市を見た。市は目をそらさない。
幕の端へ目を移すと、藤吉郎が小さくうなずいた。それだけであった。
望月は市へ目を戻した。灯の芯が、小さく鳴った。
「・・・わかり申した。われらは浅井になる、というわけではないのだな」
「最初からそう言うておるじゃろ」
「きまりじゃな。味方せい。あとのことは長政に任せたぞ」
市は笑った。それから身を返し、幕を上げて出ていった。振り返らなかった。
◇
望月は、下りた幕を見ていた。市は何も約束していない。望月も、その言葉を当てにして受けたのではなかった。
受けたのは、藤吉郎がうなずいたからである。
六角を追いつめておる、と市は言った。六角の倅は甲賀の奥にいる。望月の手の者を動かしてきたのも、その倅からの払いであった。払いは夏の初めから細くなり、それでも倅は、どこからか銭を絞り出している。それも、そう長くは続かない。
市は、払いのことには一言も触れなかった。倅が何を払っているのかも、望月には訊かなかった。
幕の中には三人が残った。長政が、望月へ向き直った。
「味方していただくからには、この先、南近江と京の動きを報せていただきとうござりまする。六角のことも」
「それは、味方として承る」
頼まれると思っていたことである。望月がうなずくと、長政は続けた。
「もう一つ、頼みがござりまする。これは、浅井の頼みではござりませぬ。わたしの頼みにござりまする」
長政は、望月を見たまま、すぐには続けなかった。口を開きかけ、いったん閉じた。
「市を、守っていただきとうござりまする。それと、市のことを逐一お知らせいただきとうござりまする」
望月は黙った。家の頼みとは別に、自分の銭で甲賀へ頼むことは、たいてい表へ出せぬ仕事である。家中の者を見張れ。他家の奥を探れ。邪魔な者を片づけよ。
この男は、そういうことを一つも言わなかった。
「ほかには」
「ござりませぬ」
灯の明かりの中で、長政はまっすぐこちらを見ていた。藤吉郎は、幕の端で目を伏せている。
望月には、分からなかった。この男は、市の何を報せてほしいのか。どこで何をしたか。誰と何を話したか。それとも、もっと別のことか。
訊けば、答えるだろうか。
望月は、訊かなかった。
「頼み申しまする」
長政が、頭を下げた。深く、下げた。望月は、その頭をしばらく見ていた。
「・・・承った」
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