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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第四章 甲賀の里】

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【第四章 甲賀の里】第五十三話 薬売りの男 何をごちゃごちゃと

 ◇


 望月出雲守は、薬売りの形で浅井の陣へ入った。


 背には薬の箱を負っている。中には、本当に薬が入っていた。甲賀の者が山を出るときは、たいていこの形になる。村で薬を売り、山の外の話を拾って帰る。


 前を歩くのは藤吉郎であった。織田から来た男である。陣の見張りは、その顔を見ると何も訊かずに通した。


 望月は、歩きながら陣の中を見た。見張りは、夏の初めより増えている。荷駄は陣の外れから真ん中へ移され、俵が幕に囲まれて積んであった。外れの井戸には板が渡され、縄まで掛けてある。もう一つの井戸には、見張りが二人立っていた。


 荷駄へ火をつけた者も、井戸へ入った者も、望月の手の者である。今は二人で立っている見張りの脇を、望月は薬の箱を背負って通った。


 その手の者が忍び込む姿を、陣の誰も見ていない。


 陣幕の脇に、黒い馬が繋いであった。報せを流した村へ、何度も駆けてきた馬である。来るところも、誰もいない村を走り回るところも、望月は山の上から見ていた。


 手の者は、黒い馬が来る前に村を出て、家の裏から山へ入る。入る道は一つではない。木の間から村を見下ろしていると、女が薙刀を立てたまま駆け込んできた。具足もつけていなかった。


 速かった。


 初めの村では、竈の火を落とす間もなかった。最後の一人が木の間に隠れたとき、黒い馬はもう村の入口にいた。二度目からは、それを見込んで早く出した。


 女は、どの村にも先頭で入った。後ろの騎馬は離れている。家の陰に人を置いておけば、横から突けた。


 置かなかったのは、あの女に届かないと思ったからではない。仕事が、村を空にすることであったからである。


 井戸へ入った者からは、女が水を飲む寸前に止められたと報せが来た。望月は、それを聞いて何も言わなかった。


 あの女がどれほど速くても、山の中へは馬で入れない。道は分かれ、入った者は木の下へ消える。山にいる限り、甲賀までは届かない。


 甲賀は、この野洲川をさかのぼった先の山あいにある。川の上へ行くほど谷は狭まり、そのあいだに田と郷が点々と散っている。奥の果ては鈴鹿の山で、峠を越えれば伊勢へ出る。山続きには伊賀がある。京から伊勢へ下る東海道も、石部から水口を抜け、この山のあいだを通っていく。


 郷ごとに家があり、家ごとに山と田を持っている。束ねる主は、いない。事があれば、家の者が寄り合って決める。望月の家も、その一つであった。


 ◇


 陣幕の前で藤吉郎が止まり、幕を上げた。望月は中へ入った。


 灯が一つ置かれ、台の上に絵図が広げてある。その向こうに、若い男が座っていた。陣の中を変え、村の道を塞がせた者である。


 浅井備前守である。


 浅井といえば、女だと聞いていた。北近江でも六角の残りのあいだでも、当主の名を口にする者は少なかった。


 幕の端に、もう一人いた。女であった。


 あの女である。近くで見ると、思っていたより若い。袴にたすき掛けで、髪を後ろに束ねている。膝へ薙刀を横たえ、刃を布で拭っていた。


 望月が入っても、市は顔を上げなかった。長政は、座ったまま頭を下げた。


「浅井備前にござりまする。望月殿、ようお越しくださりまする」


 望月も膝をつき、薬の箱を脇へ下ろした。


「甲賀の望月にござる」


 頭を上げると、長政がこちらを見ていた。探るような目ではなかった。藤吉郎は、その脇に控えている。女の手は、止まらなかった。


「浅井に属していただきとうござりまする」


 望月は、すぐには答えなかった。この夏に手の者が何をしたかを、長政は知っている。知ったうえで、咎めもせずに属してくれと言っていた。


「手前どもは、どこにも属したことがござらぬ。属せば、次は兵を出せと仰せられましょう」


「土地はそのまま安堵いたしまする。一石も取りませぬ」


「安堵と申されるが、それは浅井様が近江におられる間の話にござろう。六角様も、同じことを仰せられた」


 長政が黙った。浅井がいつまで近江にいるかを、この男は約束できない。約束できないことを、約束するとは言わなかった。


 布の動く音だけが、幕の中に残った。刃の上を端から端まで、同じ速さで往復している。望月が長政の返事を待っているあいだも続き、それから止まった。


 女が薙刀を持って立った。望月の前まで来ると、三歩のところで止まった。


「何をごちゃごちゃと」


 目が合った。山の上から見ていたとき、この女の目はいつも村の中にあった。こちらを見たことはない。今は、まっすぐ望月を見ている。


 浅井の奥方、市である。


「望月というたか。われらはこれより京を取る。そうしたら甲賀は、われらの領地に挟まれることになるじゃろ」


「そうなれば、おぬしらはどうするのじゃ」


「京などと。そんな夢見事を」


 市は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。望月の方へ一歩寄った。


「夢ではない。現に六角も追いつめておるではないか。おぬしらが邪魔するから、てこずっておるということじゃろ。なあ、長政」


「はい」


 市は長政を見なかった。望月を見たままである。


「であれば、おぬしらが味方すればよいだけのことではないか。のう、望月。わしらに味方せい」


 望月は黙った。長政が約束できずに黙ったものを、市は何も約束せずに押してくる。筋は通っているが、何も差し出してはいない。


「しかし・・・手前どもは、いままでどこにも属さなんだ。それが甲賀じゃ」


「ええい、まどろっこしい。おぬしらはおぬしらでおればよいではないか。協力するのか、せぬのか。どっちじゃ」


 望月は、市を見た。市は目をそらさない。


 幕の端へ目を移すと、藤吉郎が小さくうなずいた。それだけであった。


 望月は市へ目を戻した。灯の芯が、小さく鳴った。


「・・・わかり申した。われらは浅井になる、というわけではないのだな」


「最初からそう言うておるじゃろ」


「きまりじゃな。味方せい。あとのことは長政に任せたぞ」


 市は笑った。それから身を返し、幕を上げて出ていった。振り返らなかった。


 ◇


 望月は、下りた幕を見ていた。市は何も約束していない。望月も、その言葉を当てにして受けたのではなかった。


 受けたのは、藤吉郎がうなずいたからである。


 六角を追いつめておる、と市は言った。六角の倅は甲賀の奥にいる。望月の手の者を動かしてきたのも、その倅からの払いであった。払いは夏の初めから細くなり、それでも倅は、どこからか銭を絞り出している。それも、そう長くは続かない。


 市は、払いのことには一言も触れなかった。倅が何を払っているのかも、望月には訊かなかった。


 幕の中には三人が残った。長政が、望月へ向き直った。


「味方していただくからには、この先、南近江と京の動きを報せていただきとうござりまする。六角のことも」


「それは、味方として承る」


 頼まれると思っていたことである。望月がうなずくと、長政は続けた。


「もう一つ、頼みがござりまする。これは、浅井の頼みではござりませぬ。わたしの頼みにござりまする」


 長政は、望月を見たまま、すぐには続けなかった。口を開きかけ、いったん閉じた。


「市を、守っていただきとうござりまする。それと、市のことを逐一お知らせいただきとうござりまする」


 望月は黙った。家の頼みとは別に、自分の銭で甲賀へ頼むことは、たいてい表へ出せぬ仕事である。家中の者を見張れ。他家の奥を探れ。邪魔な者を片づけよ。


 この男は、そういうことを一つも言わなかった。


「ほかには」


「ござりませぬ」


 灯の明かりの中で、長政はまっすぐこちらを見ていた。藤吉郎は、幕の端で目を伏せている。


 望月には、分からなかった。この男は、市の何を報せてほしいのか。どこで何をしたか。誰と何を話したか。それとも、もっと別のことか。


 訊けば、答えるだろうか。


 望月は、訊かなかった。


「頼み申しまする」


 長政が、頭を下げた。深く、下げた。望月は、その頭をしばらく見ていた。


「・・・承った」

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