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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第四章 甲賀の里】

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【第四章 甲賀の里】第五十二話 山奥の里 わしの方が早う着く

一五六四年 晩夏  近江 石部



 木下藤吉郎は、陣の端から野の田を見ていた。


 田の稲が、穂をつけていた。まだ青いが、先が重くなって、少し垂れている。夕方になると、陣外れの林で蜩が鳴いた。


 井戸の水で倒れた者は、あらかた起き上がっていた。起き上がれなかった者が何人か、郷へ帰された。その分だけ、陣の列が短くなっていた。


 報せを持ってきたのは、猟師であった。弓を背負ったまま、陣の入口で膝をついた。山へ鹿を追って入ったところ、奥の里に人が集まっていたという。


 長政は、猟師を帰さなかった。陣に留めて飯を食わせ、日が落ちる前に人を二組出した。一組は谷の道を進み、もう一組は猟師に案内させて峠を越える。どちらも里が見えるところで引き返し、戻るまでにどれだけかかったかを数えるよう言いつけた。


 二組が戻る前に夜が明けた。


 日が高くなった頃、長政はそれぞれの話を聞いた。道の曲がるところ、足場の悪いところ、里の屋根が見えたところを絵図へ書き込んでいく。最後に、二組が戻るまでにかかった時を並べ、指で数えた。


「里へ入る道は、二本しかない」


 幕の中の者たちが、絵図を見た。誰も口を挟まなかった。


「谷の道と、山を越える峠じゃ。谷から入れば、峠へ抜けられる」


 長政は、絵図の二か所を指で押さえた。指は、二本の道の口にあった。


「両方から同じ時に入る。市は谷の道から。わたしは峠から下りる」


 藤吉郎は、幕の端から絵図を見ていた。谷から里へ入る時と、峠から下りる時が書き込んである。峠の道の方が長い。


「谷の手は、ここに杭を立てよ。峠の手は、上に立てる。地面に印をつけ、杭の影がそこへ届いたら出る」


 杭を立てる場所は、道にかかる時の違う分だけずらしてあった。藤吉郎は、絵図に書かれた二本の道を目でたどった。どちらも、里の入口までの道のりが確かめてある。


 初めは、物見を出しているあいだに消えた。次は、先に道を塞いでも消えた。今度は、逃げ道そのものへ長政が立つ。


 幕が上がり、市が顔を出した。


「長政、次はどこじゃ」


「山の奥の里にござりまする。わたしは峠から下りまする。市は谷の道をお願いいたしまする」


「ほう。二手から攻めるのか」


 市は少し黙った。それから、口の端が上がった。


「では、どっちが先に着くか、勝負じゃな」


「同じ時に着きまする」


「わしの方が早う着くに決まっておる」


 市は幕を下ろした。外で笑う声がした。三田村に何か言っている。


 ◇


 木下藤吉郎は、夜のうちに、長政の手勢と峠へ上がっていた。手勢は二百ほどである。


 峠の上は風が通っていた。平らなところに杭が一本立ててある。長政はその脇に立ち、短くなっていく影を見ていた。手勢の者も、影を見ていた。誰も口をきかなかった。


 峠の下には里があった。木の間から屋根が五つ、六つ見える。煙は上がっていない。


 杭の影が、地面の印へ届いた。


「みな続け」


 長政の手勢が峠を下りはじめた。道は、人が二人並べるかどうかの幅である。石を踏むたびに足元が滑った。下りるにつれて屋根がはっきり見えてきたが、人の姿はなかった。


 峠の道が、里の山際へ出た。長政が足を速め、家の脇から里の中へ入ろうとした。谷の道から蹄の音がして、藤吉郎は顔を上げた。里の谷側に、土埃が上がっている。


 その先頭に、黒い馬がいた。


 市であった。薙刀を立てていた。


 まっすぐ、こちらへ来た。


 速さを落とさなかった。


 家と家のあいだを抜けた。


 抜けて、里の中へ入ってきた。


 早い。


 刃が、日を受けて光った。


 顔が、まっすぐこちらを向いていた。


 目が、長政の手勢を端から端まで見ていた。


 列の先が、止まった。


 止まれと言われたのではない。


 槍を持ったまま、足が出なくなっていた。


 一人が、半歩下がった。


 藤吉郎の喉が、鳴った。


 市が、馬を止めた。


 長政の手勢までは、二十間ほどであった。三田村と大野木が、市を挟んで止まる。騎馬も、その後ろで次々に止まった。黒い馬の首に汗が光っていた。


 藤吉郎が市を正面から見るのは、初めてであった。いつも追っていたのは、その背中である。


 市と長政のあいだに、人はいなかった。家が五つ、六つ並んでいるだけで、戸はどれも閉まっている。道にも何も落ちていない。人を挟むはずであった二手が、空の里を挟んで向かい合っていた。


 市は家を見た。道を見た。それから、里を挟んだ長政を見た。


「だれもおらぬではないか」


 声は大きくなかった。それでも、里の端まで聞こえた。


「なぜじゃ」


 誰も何も言わなかった。市の騎馬も、長政の手勢も、互いの顔を見ていた。


 市は馬の首を返した。引くぞ、とは言わない。谷の道へ駆けていき、三田村と大野木が続いた。騎馬も次々に向きを変えた。


 土埃だけが、里の向こうへ遠ざかっていった。長政は、それが見えなくなるまで立っていた。それから手勢へ向き直った。


「戻る」


 ◇


 陣へ戻ったときには、日が山の端へ近づいていた。市の騎馬は、とうに戻っている。陣幕の近くに繋がれた黒い馬の汗は、もう乾いていた。


 長政は陣幕に入り、具足の胴を外した。脇へ置き、台の前へ座った。


 すぐに幕が上がった。市であった。着替えていない。袴の裾に里の土がつき、顔にも土埃が薄く残っていた。薙刀は持っていなかった。市は座らず、長政を見下ろした。


「倒す相手がおらぬではないか」


 里で言った「おらぬ」と、同じ声であった。怒鳴ってはいなかった。


「おぬしの差配が悪いのではないか」


 市は幕の外を見た。誰かが飯の支度をしている。釜の蓋が鳴っていた。


「腹が減ったの。支度せい」


 市は幕を上げて出ていった。長政の返事は待たなかった。


 長政は何も言わなかった。答えず、言い返さず、頭も下げなかった。市を見上げた形のまま動かない。


 幕の外で、市が飯の支度を急かした。すぐに、ただいま、と声が返る。器の触れ合う音へ、市の笑い声が重なった。


 声が、遠ざかっていった。


 藤吉郎は、幕の端に控えていた。市はもう、幕の外で飯の話をしている。だが、長政は、外した胴を脇へ置いたまま座っていた。


 やがて長政が動いた。台の上の絵図を引き寄せて広げ、筆へ墨を含ませた。筆を、二本の道の上へ持っていく。


 持っていって、そこで止まった。


 筆の先が震えていた。震えたまま下りない。墨が、先で乾いていった。


 長政はしばらくそうしてから、筆を置いた。外で、市の笑う声がした。飯を配る声に混じっている。何がおかしいのかは、幕の中まで届かなかった。


 ◇


 外で日が落ち、幕の中も暗くなっていった。長政は、灯を持ってこいとも言わなかった。


 絵図は広げたままであった。長政は、もうそれを見ていない。藤吉郎はその横顔を見て、気の毒な、と思った。


 また、市の笑う声がした。藤吉郎は、膝を進めた。


「浅井様」


 長政が顔を上げた。暗くて、表情はよく見えなかった。


「ひとつ、心当たりがござりまする。この夏のことは、甲賀の者の仕事にござりましょう」


 長政の顔が、少し動いた。


 甲賀は、石部から山へ分け入った先にある。六角の倅が逃げ込んだ土地である。長政が知らないはずはない。だが、この夏、一度もその名を口にしていなかった。


「話の通じる者に、心当たりがござりまする」


 藤吉郎は、それだけ言った。どこで誰と繋がっているのかは言わず、長政も訊かなかった。


 しばらく、黙っていた。


「・・・お頼み申しまする」


 長政の声は低かった。


 藤吉郎は頭を下げた。それから立ち上がり、幕を上げて外へ出た。


 陣のあちこちで、飯を炊く火が上がっていた。藤吉郎は、その火のあいだを抜け、陣の山際へ歩いていった。

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