【第四章 甲賀の里】第五十一話 陣中の井戸 返事はよい。寝ておれ
◇
大野木秀俊は、陣の外れの木の下で小刀を研いでいた。
その日は、朝から風がなかった。陣幕が垂れたまま動かない。
日が高くなると、乾いた地面から熱が上がった。兵は幕の陰や木の下へ入り、具足を脱いでいた。出る報せは来ていない。
井戸から運ばれた桶だけが、陣の中を何度も行き来していた。柄杓が回り、水はすぐになくなった。飲んだ者が顔や首へ残りをかけるので、木の下には黒く濡れた跡がいくつもできていた。その跡も、日が当たるとすぐに乾いた。
小刀の刃は、この夏ほとんど減っていない。欠けたところもなかった。
それでも毎日研いだ。砥石の上を同じ回数だけ滑らせ、布で拭き、刃を日にかざしてから鞘へ納める。
◇
昼を過ぎた頃、一人が腹を押さえて木の陰へ走った。
大野木は見ていたが、気にしなかった。暑い日には、腹を下す者もいる。
しばらくして、もう一人が走った。その後で、また一人が立ち上がった。
先に行った者が、戻ってこない。
大野木は小刀を納め、木の陰へ向かった。三人が地面に膝をついている。一人は吐き、一人は腹を抱えて横になっていた。顔から血の気が引いている。
肩へ手をかけると、ひどく熱かった。呼びかけても、目だけが大野木の方を向いた。水、と口が動いたが、声は出なかった。
陣の中で、また人が立ち上がった。二人、三人と腹を押さえ、あちこちの陰へ走っていく。歩いていた者が、その場へ膝をついた。槍を杖にして立とうとしたが、立てなかった。日が傾きはじめるまでに、倒れた者は二十を超えた。
陣幕の陰へ筵が敷かれ、倒れた者が並べられた。並べても、まだ運ばれてくる。
水を求める声があり、飲ませるとすぐ吐く者がいた。吐く声と、浅い息が重なり、幕の陰には酸い匂いがこもった。
大野木も運ぶ方へ回った。腕を肩へかけ、引きずるようにして進む。運ばれる者は足が立たない。力を抜いた体は重く、具足を外していても、一人ではまっすぐ運べなかった。
途中で吐いたものが、大野木の袴へかかった。大野木は拭わなかった。筵へ下ろし、また次を運びに行った。
人が倒れるのは見慣れている。大野木は首を落とす役である。倒れた者へ膝をつき、押さえて、落とす。斬られた者が、どのように力を失うのかを知っていた。
ここにいる者は違った。斬られていない。突かれてもいない。血も出ていない。それなのに立てず、筵の上で体を丸めて震えていた。
長政が筵の列へ来た。大野木は、運んだ者を下ろして脇へ寄った。
長政は列の端へ膝をつき、一人ずつ顔を覗き込んだ。額へ手を当て、唇を見た。短く何か訊き、途切れた答えを最後まで聞いてから、次の者へ移る。
同じ答えでも、途中で遮らなかった。近くにいた大野木にも、その問いが聞こえた。
「今日、水をどこで飲んだ」
それだけであった。一人目は、外れの井戸だと答えた。二人目も同じ井戸である。三人目は答えられず、隣の者が、こやつもそこで汲んでおった、と代わりに言った。
長政は列の終わりまで、同じことを訊いた。何を食べたかは訊かなかった。いつ腹が痛み始めたかも訊かない。
答えられない者には、同じ組の者を呼ばせた。藤吉郎が、井戸の名だけを一つずつ書きつけていく。
最後の一人まで終えると、長政は立った。
「外れの井戸の水を飲むな」
声は大きくなかった。それでも、筵の列の端まで届いた。
「陣の全部に触れよ。汲んである水も、今すぐ捨てさせよ」
伝令が走った。藤吉郎は書付を持ったまま、もう一つの井戸へ向かった。
大野木は、また運ぶ方へ戻った。
◇
筵の列の中ほどに、市がいた。いつから来ていたのか、大野木は見ていない。
市は薙刀を持たず、列のあいだを歩いていた。倒れている者の顔を一人ずつ見て、名を呼んでいく。
「藤蔵」
藤蔵が目を開けた。顔は白く、唇が乾いていた。
「なんじゃ、おぬしまで腹を下したのか」
市が笑うと、藤蔵の口の端が少し上がった。笑ったあとで、また腹を押さえた。
「・・・面目、ござりませぬ」
「早う治せ。次は出るぞ」
「・・・へえ」
市は隣へ移った。
「弥七」
呼ばれた者が目を開けた。口が二度動いたが、声にはならなかった。
「返事はよい。寝ておれ」
市はそれだけ言い、次へ行った。名を呼ばれた者は目を開けた。起き上がろうとする者には、寝ておれと言った。一人には、暑苦しい顔をするな、と言った。その男は、腹を抱えたまま笑った。
「庄吉」
返事はなかった。市がもう一度呼ぶと、庄吉の指が筵の上で少し動いた。
「聞こえておるなら、それでよい。目を開けるな」
指が、もう一度動いた。市はそれを見て、次の者の名を呼んだ。
大野木は、運んできた者を下ろしながら見ていた。市へ手を貸すことはできない。運ぶ者が、まだ後ろにいる。
筵の者たちは、市が通り過ぎたあとも、その背中を目で追っていた。呼ばれなかった者まで、顔を市の方へ向けている。腹を抱えた手はそのままだが、さっきまで閉じていた目が開いていた。
市は列の終わりまで歩き、額の汗を手の甲で拭った。
「それにしても、暑いのう」
そう言って、また歩き出した。
大野木は顔を上げた。市が向かう先は、陣の外れである。暑ければ、水を飲みに行く。
足が止まった。止まってから、その理由が分かった。市は、触れを聞いていない。
大野木は、抱えていた者を筵へ下ろして走った。
追いつく前に、市は井戸へ着いていた。大野木と市のあいだには、まだ幕が二つあった。
見張りはいない。触れを聞き、汲んである水を捨てに行ったのかもしれない。井戸には釣瓶が掛かり、その脇に水を汲んだ桶が一つ残っていた。
市が桶の脇の柄杓を取った。水へ入れ、いっぱいに汲んだ。柄杓の縁から水が揺れ、いくらか桶へ戻った。残った水は、日を受けても澄んで見えた。匂いも、ここからは分からない。
大野木は声を出そうとした。走った息が喉にかかり、すぐには出なかった。足だけが前へ出て、市との間が一つの幕になった。
市が、柄杓を口へ上げた。
その横へ、人が入った。
三田村であった。どこから来たのか、大野木には見えなかった。市の脇へ入るまで、足音も聞こえなかった。三田村は柄杓の口へ手をかぶせていた。
「お市様。御免」
市の手が止まった。
柄杓は口の手前にある。三田村の手のひらが、その上を塞いでいた。水が指のあいだからこぼれ、市の袖と乾いた地面へ落ちた。
市は三田村を見た。三田村も、市の顔を見ていた。
どちらも、動かなかった。市の袖へ落ちた水だけが、布の色を濃くしていった。
市が柄杓から手を離した。三田村は受け取り、中の水を地面へ捨てた。水は黒い染みを作り、すぐに土へ吸い込まれた。
市は何も訊かなかった。
水がどうしたのかも、なぜ止められたのかも訊かない。手の甲で、もう一度額の汗を拭った。
「なにをするのじゃ。ほかの水を持ってこい」
誰に言ったのでもなかった。言ったときには、もう井戸を離れている。
もう一つの井戸から、桶を抱えた者が走ってきた。野村の手の者であった。桶の水をこぼさぬよう、両腕で胸へ抱えている。
大野木は、その場に立っていた。足は、まだ前へ出かけた形のままである。三田村が井戸の脇に残っていた桶を持ち上げ、中の水をすべて地面へ空けた。
大野木が筵の方を見ると、列の端に長政が立っていた。こちらへ来る途中で、足を止めたらしい。手には、藤吉郎が書いた紙があった。
長政は、市が離れていく背中を見ていた。何も言わなかった。しばらくそこに立ち、それから筵の列へ戻った。
大野木も戻った。まだ運ぶ者がいる。さっき水を求めた男は、筵の上で目を閉じていた。大野木は別の者を運んで下ろし、また陣の中へ戻った。
日が傾く頃、陣の外れの井戸へ人が来た。井戸の口に板を渡し、縄をかけた。
大野木は、それを遠くから見ていた。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




