【第四章 甲賀の里】第五十話 川向こうの影 暗うて、先が見えぬ
一五六四年 夏 近江 石部
木下藤吉郎は、陣幕の端に控えていた。
浅井の陣は、六角の残りと当たったときと同じところにあった。
陣の奥には、荷駄の一部が焼けた黒い跡が残っている。火をつけた者は見つからなかった。見張りの誰も、人の姿を見ていない。
昼を過ぎた頃、川向こうの村に見慣れない男が何十人も入り、槍を持つ者もいると報せが来た。
「物見を出せ」
長政は、どの村か、何人ほどか、いつから見たかを訊いた。三つとも答えさせ、報せた者には銭を持たせて帰した。
「二人。川の手前まで行かせて、すぐ戻らせよ」
伝令が走った。外で馬の足音がすると、市が幕を上げて顔を出した。薙刀を肩に担いでいる。
「報せが来たそうじゃな」
市は幕の端を持ったまま、中へは入ってこなかった。背中の向こうで、黒い馬が首を振っている。
「はい。いま、物見を出しておりまする」
長政は、台の上の絵図から顔を上げて答えた。指は、川向こうの村の上に置いたままである。
「すぐに出ればよいではないか」
物見が発ってから、まだいくらも経っていない。川の手前まで行って戻るには、しばらくかかる。長政は、指を絵図から離さなかった。
「物見が戻ってから、お出ましくだされ」
市は、少しのあいだ長政の顔を見ていた。肩の薙刀が、担ぎ直されて揺れた。
「なんじゃ、つまらんの」
市は幕を下ろした。馬の足音が遠ざかり、また近づき、また遠ざかる。陣の前を往復していた。
藤吉郎が幕の隙間から見ると、市は黒い馬に乗り、薙刀を立てて川向こうの山を見ていた。往復するたび、市の騎馬が少しずつ集まってくる。誰も呼んでいない。三田村と大野木が市の脇へ馬を寄せ、野村が後ろへ替え馬を引いてきた。
半刻ほどして、物見が戻った。
「おりまする。四、五十ほど。槍を持つ者もおりまする」
長政が外へ出ると、市が馬を止めた。こちらを見た顔が変わり、口の端が上がった。
「出る。長政、ついてまいれ」
市の馬は、もう出ていた。
◇
野洲川を渡り、街道を越えると、すぐ山裾であった。市の黒い馬は、待たされたぶん速かった。三田村と大野木はついているが、後ろの騎馬との間は開いていた。
家が十軒ほど並ぶ村が見えた。どの家も、裏がすぐ山である。家と家のあいだから細い道が山へ入っていた。一本ではない。家の数ほどあり、木の間ですぐに見えなくなっている。
市は速さを落とさず村へ入った。村の中は静かであった。
真ん中で馬を止めた。三田村と大野木が脇につき、後ろの騎馬が次々に止まる。
誰もいなかった。
「大将はどれじゃ」
三田村は、家のあいだを端から見ていった。戸口にも、家の陰にも動くものはない。
「・・・見えませぬ」
市は家の前を一軒ずつ回った。戸口で馬を止め、馬上から中を覗いては、次の家へ進む。藤吉郎も近くの家へ入った。
奥の竈には、まだ赤い火が残っていた。鍋がかかり、蓋の縁から湯気が出ている。藤吉郎は、その湯気を見ていた。
どの家も同じであった。荷も家財も、竈の火も残っている。
人だけがいなかった。
物見が確かめてから、まだいくらも経っていない。そのあいだに四、五十人が、荷も持たずに消えていた。
「なんじゃ、大将はおらんのか」
拍子の抜けた声であった。誰も何も言わない。
藤吉郎は家の裏を見た。人が一人通れるほどの道が、山へ入っている。隣の家の裏にも、その隣にもあった。
藤吉郎は道を一つずつ見た。見て、何も言わなかった。
「引くぞ」
市は、もう馬の首を返していた。
◇
野村定元は、荷駄の脇で寝ていた。最初に俵が焼けてから、誰に言われるでもなく、そうしている。
その夜、焦げる匂いで目を開けたときには、もう明るかった。荷駄の端と中ほど、その間でも火が上がっている。三か所は離れ、同じときに燃えていた。一つの火が燃え移ったのではない。
野村は替えの薙刀の束を抱えて火から遠ざけ、戻って馬の杭を外した。四頭をまとめて引き、燃えていない側へ移した。
「火じゃ!荷駄に火じゃ!」
陣が起きた。野村が俵を引かせ、二つの井戸から桶を回させると、見張りの一人が走ってきた。
「野村様、誰も見ておりませぬ。ずっと立っておりました」
「ほかの見張りも、同じことを申しておりまする」
見張りの顔は、火に照らされて赤かった。野村が見ても、嘘をついているようには見えなかった。
「なんじゃ、この騒ぎは」
市が来た。寝間着に袴だけをつけ、髪はまとめていない。背中へ流れ、手には薙刀があった。燃える荷駄を見て、あたりを見回した。
「どこじゃ。どこから来たんじゃ」
野村は答えられなかった。
「馬をもて」
「お市様、鞍を」
言い終わる前に、市は馬の背へ手をついて跳び、鞍のない背へ跨っていた。薙刀は持ったままである。手綱を受け取ると、黒い馬は幕のあいだを抜け、火の明かりから暗い野へ出ていった。
三田村と大野木が、具足をつけかけたまま飛び出してきた。二人が馬へ跨ったときには、市の姿はもう見えなかった。
火が消えるまで、半刻ほどかかった。その頃になって市が戻ってきた。黒い馬の息は荒く、首に汗が光っている。
「山の口まで行った。暗うて、先が見えぬ」
誰に言うでもなく、そのあたりへ投げた。馬を降りると、焦げた荷駄を一度だけ見た。何が、どれだけ焼けたのかは訊かなかった。
市は薙刀を肩に担ぎ、幕へ戻った。流れた髪が背中で揺れていた。
野村は松明を地面に立て、焦げた俵を数えた。中まで焼けたものが九つ。外だけ焦げたものが七つ。秣は四駄ぶん。縄は、ほとんど使えない。
替えの薙刀六本と、替え馬三頭は無事であった。野村は帳面を出し、数えたものを一行ずつ書きつけた。
◇
木下藤吉郎は、二度目の報せを陣幕の端で聞いた。前とは違う村からで、持ってきたのは行商の男であった。
長政は絵図を見た。指が村の裏から山へ入り、ゆっくり回って、また村へ戻る。藤吉郎はその横顔を見ながら、前の村で見た細い道を思い出した。長政も、あの道を見ていた。
「物見は出さぬ。別手を百出す。暗いうちに山を回らせ、村の裏の道をすべて塞がせよ」
「道は、いくつござりましょうか」
「分からぬ。見つけた道は、すべてじゃ」
百人が陣を出た。松明は持たせなかった。
夜が明ける前から、市は馬の上にいた。川を渡り、山裾に沿って、前とよく似た村へ向かう。家が十軒ほど並び、どの家の裏もすぐ山であった。
市は騎馬が揃うのを待たず、黒い馬の速さも落とさなかった。三田村と大野木は脇についているが、後ろの騎馬はまだ離れていた。
藤吉郎は、長政の後ろで手綱を握り直した。家の陰に人が潜んでいれば、入ってきた者を横から突ける。市の後ろは、まだ村の外である。
市の馬が村へ入った。何も起きなかった。
市は村の端まで駆け抜け、馬を返して戻ってきた。それでも何も出てこない。市は家を覗こうともしなかった。
藤吉郎は馬を降り、竈へ手をかざした。灰は白く、温もりがない。家の前の道には、脇から草が伸びていた。朝露が草の先に残り、どこも同じ色をしている。
人が歩けば、露は落ちる。隣の家も、その隣も、露は崩れていなかった。少なくとも、夜が明けてから人が歩いた跡はない。
家の裏から、別手の者が出てきた。長政の前で膝をつく。
「道は五つござりました。すべて夜明け前に塞ぎ申した」
「誰か来たか」
「誰も、来ませなんだ」
長政はうなずき、それきり何も言わなかった。
「またおらぬのか。わしの出番がないの」
前の村よりも短かった。怒ってもいない。退屈している声であった。
「引くぞ」
◇
同じことが、またあった。報せを持ってくる者は、そのたびに違った。報せが入り、出る。どの村にも市の黒い馬が先に入り、着くと誰もいない。戻る。
荷駄の脇でもう一度火が出た。野村が寝ていたので、すぐに消えた。焦げた跡が、陣の奥にまた残った。買い入れた俵は列の中へ積み直し、見張りは二人ずつに増えた。
帰り道に、誰も喋らなくなった。最初は腹が減った、暑いと言い合っていた者たちが、川を渡るときにも口を開かない。水を跳ねる音と、馬の息と、具足の擦れる音だけがしていた。兵は山を見上げ、すぐに目を下げた。
藤吉郎は長政の後ろから、それを見ていた。長政は、前を行く市の背中を見ていた。
市は、振り返らなかった。
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