【第四章 甲賀の里】第四十九話 石部の合戦 長政、なぜ止めるのじゃ
一五六四年 初夏 近江 石部
三田村国定は、陣の前に馬を出していた。野を挟んで、六角の残りと向かい合っている。
石部は、東海道が水口へ向かう途中の集落である。野洲川の南の岸にあり、村の裏からすぐ山が始まる。低い山だが、奥は深い。どこまで続くのか、川のこちらからは見えなかった。その山の奥が、甲賀であった。
浅井は、北近江から六角の地を下り、野洲川の北の岸まで来ていた。川の向こうに、石部の屋根が並んでいる。北の岸には、田の入っていない乾いた野がある。短い草が生えているだけで、馬を遮るものはない。
浅井の陣は、野の北寄り、村のはずれの少し高いところに置いてある。荷駄は陣の奥、山から最も遠いところへ置いた。六角の残りは川を渡ってきて、川の側に出ていた。あいだは五町ほどである。
陣の前には、市の騎馬が揃っている。先頭に市、その脇に三田村と大野木、すぐ後ろに長政がいた。野村は、さらに後ろで替え馬の手綱を持っている。
六角の兵は千に届かない。家ごとの小さい旗が、ばらばらに立っていた。その奥に一つだけ、四つ目結の大きな旗が見える。六角の紋である。
六角の当主は、先年、市が討った。甲賀へ落ちた倅を、残った者が担いでいるのであろう。大きな旗のまわりだけ、人の固まり方が違っていた。床几までは見えない。だが、そこだけは前の者が旗へ背を向けていなかった。
市が、その旗を見ていた。薙刀を片手で立て、袴にたすき掛けである。具足はつけていない。
「大将はどれじゃ」
市は旗を見たまま言った。誰に訊いたのでもなかった。
「あれにござりまする。大きい旗の下にござりまする」
三田村が槍の穂先で示すと、市は大きな旗を見た。目が細くなり、口の端が上がった。
「ほう、あれか」
市は手綱を持ち直した。
そのとき、うしろの陣で声が上がった。
荷駄を置いたあたりから、黒い煙が立っている。一筋ではない。二筋、三筋と、陣の奥から空へ立っていた。
野にいた者が振り返った。前の兵も、槍を立てたまま首だけを陣へ回している。大野木も見ていた。野村は、替え馬の首を半分、煙の方へ向けていた。
市も薙刀を立てたまま、顔だけを煙へ向けている。蹴りかけた足が、馬の腹の手前で止まっていた。
陣から伝令が一騎、駆けてきた。長政へ馬を寄せ、低い声で何か告げる。三田村のところまでは届かなかった。長政の顔が伝令へ向き、伝令がもう一度何か言った。
「長政、ついてまいれ」
市の馬が、駆けだそうと動いた。
長政が手を上げた。
「市、お待ちくだされ」
声が騎馬の端まで通った。振り返っていた者が前へ向き直り、そのまま止まった。馬の足踏みだけが聞こえた。
誰も動かなかった。先頭の市が動くのを待っている。
三田村は、長政の顔を見た。市に待てと言った。この人が、口に出して市を止めるのを、聞いたことがない。
市が馬の首を半分返した。眉が寄っている。
「長政、なぜ止めるのじゃ」
市は煙を見ていた。見たうえで訊いている。
「後ろで、何かあった様子にござりまする」
何があったのかは言わなかった。伝令が何を告げたのかも言わない。長政は煙を一度見て、それから市の顔を見た。
市は、もう大きな旗へ目を戻していた。
「ならば、後ろはおぬしが見てまいれ。わしは大将を取る」
馬の首も、旗の方へ戻っている。長政は、その横顔を少しのあいだ見ていた。
「・・・三田村、市を頼む」
「はっ」
長政が手綱を返した。その後ろに、小柄な男が一人ついた。清洲から来た藤吉郎である。小谷へ戻ってからは、長政のそばを離れていない。二騎が陣へ駆けていった。
市は振り返らなかった。長政の馬が遠ざかる音にも、顔を向けない。
「遅れるでないぞ」
「はっ」
市が、馬の腹を蹴る。
市の馬が出る。
三田村と大野木が脇につく。
後ろから、騎馬が続く。
野を、まっすぐ六角の旗へ駆ける。
敵方の前の列が近づいてきた。
槍を構える者と、構えない者がいた。
穂先の高さも揃っていなかった。
双方が当たった。
三田村が、槍を払う。
払った先で、兵が体を開いた。
開いたところへ、市が入る。
薙刀が倒れる。
三田村の肩の上を、柄が通る。
通って、返る。
槍を構えた者が、そのまま倒れた。
刃がどこへ入ったのかは、見ていない。
見たときには、市はもう次の者のところにいる。
前の兵が、両脇へ倒れていった。
そのあいだを、市の馬が抜けていく。
三田村は、自分の側を押さえる。
押さえながら、前へ出る。
市の馬の尻が、槍一本ぶん先にある。
その距離を離さない。
離れれば、市の脇が空く。
反対の脇では、大野木が槍を振っている。
同じ距離を保っている。
列が割れた。
前の者が、両脇へ逃げはじめた。
逃げる者が、後ろの者へぶつかった。
ぶつかった者が、また逃げた。
六角の陣が、内から崩れた。
崩れたところを、市の馬が抜ける。
旗の下へ出る。
三田村も出る。
人が、いなかった。
大きな旗のまわりに固まっていた者が、一人も残っていなかった。床几が倒れ、四つ目結の旗は竿を折られて、半分ほど土をかぶっている。
市が馬を止めた。馬上からあたりを見回し、倒れた床几を見た。落ちた旗を見た。それから、川の方を見た。
「逃げおったか」
声が大きかった。三田村はその横顔を見た。目が細くなっている。頬には土がつき、薙刀の柄を握る手に力が入っていた。
三田村は、いつ逃げたのかを考えた。煙が上がる前には、旗の下に人が固まっていた。皆が陣を振り返り、騎馬が止まっていたあいだは見ていない。
あのあいだである。
市が、また馬の腹を蹴った。旗の向こうには、川へ逃げる背が見える。ばらばらで、この季節は浅い野洲川へ下りていく。
市はそのあいだを抜け、逃げる者には目もくれなかった。六角の兵は、市の馬が近づくと両脇へ散った。止める者は、もういない。
市の馬が川へ入った。水を跳ね上げて渡り、街道を越えて、山裾へ上がる。三田村と大野木も続いた。三田村の馬は川底の石を踏み、一度よろけてから岸へ上がった。
山裾に、狭い谷が口を開けていた。木が道際まで迫り、奥は暗い。一本だった道が中で二つに分かれ、その先でまた分かれているのが、木の間から見えた。
人の背が谷へ入った。入って、木に隠れた。
◇
市の馬が、谷の口で止まった。三田村が止まり、大野木も止まった。後ろから来た騎馬が、次々に止まっていく。
谷の中から足音が聞こえていた。一つではない。いくつもの足音が、いくつもの道へ分かれて遠ざかる。どれが大将のものか、音では分からなかった。
市は、薙刀を立てたまま谷の奥を見ていた。動かなかった。
三田村にも、どの道へ入ったのか分からなかった。見えるだけで三つある。その奥にいくつあるかも分からない。木は深い。馬では、先へ行くほど進めなくなる。
「大将は、どの道じゃ」
「・・・分かりませぬ」
三田村がそう答えると、市がこちらを見た。責める目ではなかった。確かめる目である。
「分からぬか」
「分かりませぬ」
「しかたないの」
市は谷の奥へ目を戻した。しばらく、そうしていた。
薙刀の柄を握る手から、力が抜けていった。三田村は、それを横から見ていた。
足音は、もう聞こえない。谷の中で、鳥が一羽鳴いた。
市が馬の首を返した。
「引くぞ」
市は、もう陣のほうへ馬を進めていた。
三田村は谷の口をもう一度見た。木の間の暗いところに、動くものはなかった。
野へ戻ると、戦は終わっていた。六角の兵は山へ散り、逃げきれなかった者が野のあちこちで膝をついている。浅井の兵が槍を立て、そのまわりを囲んでいた。
立っている旗は、浅井のものだけであった。
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