【第四章 甲賀の里】第四十八話 夜更けの信長 そうぞうしいのう
一五六四年 初夏 尾張 清洲
信長は、寝所で帯を解いたところであった。
清洲の城はもう暗い。この時分に人が来ることは、めったにない。褥へ膝をついたとき、襖の外で取次の声がした。
「浅井備前守様が、お戻りにござります」
信長は、膝をついたまま止まった。道で何かあったのなら、戻るのは家来であろう。当主が自分で戻ってくるのは、よほどのことであった。
市が、と思った。馬から落ちたのか。誰かに襲われたのか。
昼の広間で、通れまする、と市は言った。訊いたのは信長で、答えたのは市である。考えてから言った間がなかった。そのときの顔が浮かんだ。
「市は」
「お一人にござります。お市様は、おられませぬ」
信長は立った。解いた帯をそのままにして羽織を肩へかけ、刀掛けから、昼に市が欲しがった刀を取った。取ってから、取ったことに気づいた。
廊下を歩くうちに、足が速くなった。襖を二つ抜け、手前の間を自分で開けた。
灯の向こうに、若い男が一人座っていた。敷居の外の暗がりには、藤吉郎が膝をついている。市に付けたはずの男である。信長は、それを訊かなかった。
「なんじゃ、おまえ一人か。市はどうした」
男が頭を下げた。昼に末席から返ってきた声で、言った。
「兄上、お願いしたきことがござりまする」
「急ぎごとか。市になんぞあったか」
信長は座らなかった。刀を手にしたまま、灯の向こうを見下ろしている。
「その刀、ゆずってくださりませ」
長政は、信長の手の中を見ていた。灯の向こうで上げた顔は若く、額に汗が浮いている。膝の上では、袴の布が握られていた。
信長の目は、その顔から横へ動いた。それから、藤吉郎のいる暗がりへ動いた。どちらにも、市はいない。
信長は、しばらく何も言わなかった。市の話が出てこない。馬から落ちたとも、襲われたとも言わない。刀をくれと言っている。
肩に入っていた力が抜けた。
「・・・おまえ、そんなことで戻ってきたのか」
「お願いいたしまする」
「こんな時間に何かと思えば。帰れ!」
敷居の外で、畳の擦れる音がした。藤吉郎が半歩ほど下がったらしい。
長政は、動かなかった。畳へ額をつけたまま、もう一度言った。
「お願いいたしまする」
信長は、長政の後ろ頭を見下ろした。髷の結い目が見える。首の後ろが日に焼け、袴の膝には握った形の皺が残っている。
動かない。
帰れと言って帰らない者は、清洲にはいない。
「なぜじゃ」
「市が気に入っておりまするゆえ」
昼の広間で、市は鞘の先から柄まで目でたどり、両の手を差し出した。断ると、すぐに手を引き、庭の鳥を見ていた。もう忘れたものと、信長は思っていた。
「市の喜ぶ顔が、見とうござりまする」
信長は刀の柄を握った。市は、欲しいものを手に入れても、すぐには笑わない。まず手に取って、上から下まで見る。それから、渡した者へ顔を上げて笑う。笑うまでに、少し間がある。その間は、周りの者が待つ。
信長も、待ったことがある。
「これはやれん」
「そこをなんとか、なりませぬか」
昼に、市は一言で引いた。この男は、引かなかった。灯の芯が小さく鳴った。
「これはやれんが、作ったやつを紹介してやる。それで我慢せい」
長政の顔が上がって、すぐに下がった。背中が小刻みに揺れている。
「猿」
「はっ」
「おまえにまかす」
「はっ」
「ありがとうござりまする。この御恩、わすれませぬ」
長政が、また頭を下げた。信長は羽織の前を合わせ直した。寝間着の帯は、解けたままであった。
「わしはもう寝る。そうぞうしいのう」
背を向けると、後ろで長政が立ち上がり、藤吉郎が膝を立てた。二人分の足音が、表の方へ遠ざかっていった。
信長は寝所へ戻り、刀を刀掛けへ置いて褥に横になった。目を閉じたが、やがて起き上がった。
刀をもう一度取り、膝へ置いた。昼間の市の顔が浮かんだ。
◇
木下藤吉郎は、門番から提灯を借りて城を出た。町は暗かった。長政を連れて、町外れの鍛冶町へ向かった。馬は城へ置いた。夜中に馬を走らせれば、朝には町じゅうへ知れる。
長政の足音は、後ろからついてきた。何も言わない。提灯の明かりは藤吉郎の足元までしか届かず、顔は見えなかった。
藤吉郎は、町の向こうの暗がりを見た。お市様は、まだ走っているだろうか。畦の溝も、道へ出てくるものも、もう見えない。
走っている、と藤吉郎は思った。お市様が、止まるはずがない。
灰の匂いがする通りで、藤吉郎は一軒の戸を叩いた。二度目で弟子が顔を出した。上様の使いだと告げると、寝間着に仕事着をかけた年配の男を連れてきた。政常である。
政常は藤吉郎を見て、その後ろの長政を見た。灯を持つ手が少し上がり、長政はその明かりの中で頭を下げた。
「こちらは、浅井備前守様にあられる」
「昼間、清洲にて刀を拝見いたし、こちらで打たれたものと伺いましてござりまする。同じものを、打っていただきとうござりまする」
藤吉郎は、横からそれを見ていた。当主が鍛冶に頭を下げている。深くはない。だが、下げている。言葉も、上の者へ向けるものであった。
政常も見ていた。見て、灯を持つ手を少し下ろした。
政常は二人を仕事場へ入れた。火床の火は落ち、金床と槌だけが灯に浮いている。政常は座れとは言わず、長政も立ったままであった。
「どなたが、お使いに」
「市に・・・」
藤吉郎は、長政の袖を指でつまみ、一度だけ引いた。長政の口が止まった。こちらを見たが、藤吉郎は前を向いている。
政常は、続きを待っていた。
「・・・いや。わたしが要るのでござりまする」
政常は長政の顔を見た。それから、膝の脇で握られた手へ目を下ろした。鉄の色を見て、火の加減を決める目である。その目は、長政から離れなかった。
「一本や二本の話ではござりますまい」
「さようにござりまする」
長政が、政常に話を合わせるように答えた。
「それだけの数を、ここから小谷へ、これから何度も運ばれるおつもりか」
長政は答えなかった。美濃は通れない。伊勢を回り、峠を越えるたび、誰の荷かを訊かれる。信長の膝元の鍛冶が、よその家へ何本も刀を出していると知られる。
政常には、この町の仕事場も客もある。信長の刀を打つ鍛冶が、小谷へ移ることもない。
考えていなかったのだ、と藤吉郎には分かった。
しばらく、誰も口を開かなかった。火床の灰が少し崩れた。
「倅がおりまする」
政常が奥へ声をかけた。すぐに人の動く音がした。出てきたのは、長政とさほど年の違わぬ男であった。肩が張り、寝間着の袖から出た手の甲には、火の粉の痕が点々とある。
若い男は、土間の端に膝をついた。長政の顔を一度だけ見て、すぐに下げた。
「まだ手前には及びませぬ。なれど、打てまする」
政常は棚から白鞘を一振り取り、長政へ差し出した。長政は両手で受け、灯へ半歩寄って鞘を払った。
刃が灯を受けた。藤吉郎のところからは、刃の色までは見えない。見えたのは、長政の横顔である。
長政は刃を灯へ近づけ、少し傾けた。傾けて、また戻した。目が先から元まで動き、元まで来ると、また先へ戻った。
長かった。
灯の芯が、二度鳴った。
若い男は土間に膝をつき、長政の手元を見ていた。政常は腕を組み、長政の顔を見ている。藤吉郎も待った。
やがて、長政が刃を鞘へ納めた。
「名を、お聞かせくださりませ」
「政直と申しまする」
長政は、白鞘を両手に持ったまま、政直へ向き直った。
「共に、参ってはくださりませぬか」
政直は父を見た。政常は頷きもせず、首も振らなかった。
政直は父の顔を見ていた。それから長政へ向き直り、床へ手をついた。
「・・・参りまする」
頭が、土間につくところまで下がった。長政が白鞘を返すと、政常は受け取った。棚へは戻さず、政直の前へ置いた。
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