【第四章 甲賀の里】第四十七話 忘れ物がござりまする
一五六四年 初夏 尾張 清洲からの道
木下藤吉郎は、清洲を出た三騎の一番後ろで、尾張の平地を駆けていた。
前を、市が行く。市の後ろに、長政がいた。浅井の家来の騎馬は、そのずっと後ろに遅れている。日が傾き、正面の低いところから顔へ当たってきた。
清洲の門を出てから、市は一度も速さを落としていない。
藤吉郎は、目を細めたが、眩しさは変わらなかった。馬が跳ねるたびに、脇が痛んだ。昼に蹴られたところである。
清洲から、街道が延びている。市は、その街道を途中で外れた。田に水が張ってあった。植えたばかりの苗が細く並んでいて、そのあいだを畦道が延びている。馬が並んで走れる幅ではない。
藤吉郎は、外れた先を目で追った。街道は、田を大きく回っている。畦道は、まっすぐ向こうの村へ延び、その手前で街道に戻っていた。
近い。
市は、その畦道を、広い道と同じ速さで行った。藤吉郎は、馬の口を取って歩いた年月がある。乗り手の上手い下手は、下から見上げて覚えた。
市は、上手かった。手綱が、ほとんど動かない。腰から上が揺れない。馬の首が上下しても、肩の高さが変わらない。行き先へ顔を向けると、馬がそちらへ向く。手が動くより先に、馬が動いている。
こういう乗り方をする者を、藤吉郎は清洲で一人しか知らない。
信長である。
畦道の先に、水を引く溝が横切っていた。幅は一間ほどある。人の渡る板が一枚、架けてあるだけである。馬の通れるものではない。
長政が、速さを落とした。藤吉郎も、手綱を引いた。
市は、落とさなかった。長政の顔が、市の背中へ向いたまま動かなくなった。
溝の手前で、馬の首が一度だけ沈んだ。沈んで、跳んだ。市の体は鞍の上で少し浮いて、向こう岸で元の高さへ戻った。蹄が土を掴む音がした。跳ねた水が、苗の上に散った。
長政の顔が、そこでようやく前へ戻った。市は、振り返らなかった。そのまま、同じ速さで行く。
長政は、溝の脇の浅いところを選んで、馬を入れた。藤吉郎も続いた。馬の脚が泥に沈んで、腹の下まで水が上がった。上がって、這い上がるようにして向こうの畦へ出た。出たところで、前から声が来た。
「猿、遅れるでないぞ」
市は、前を向いたまま、声だけを後ろへ投げた。
「はっ」
藤吉郎は、そう返した。届いたかどうかは分からない。市の速さは、変わらなかった。
長政が、すぐに間を詰め直した。市との間を、馬二頭ぶんほどに戻している。前の背中から、目を離していなかった。
清洲の門で、浅井の当主だと聞かされた男である。藤吉郎は、それ以上のことを知らない。
◇
畦道が街道へ戻り、村へ入った。
道の脇で、女が二人、水桶を下ろして立ち話をしていた。蹄の音で顔を上げた。上げたまま、口が開いた。
家の陰から、子どもが一人飛び出してきた。
道の真ん中である。まだ小さな子であった。何かを追っているらしく、地面を見ている。顔を上げない。市の馬との間は、馬四頭ぶんもなかった。
藤吉郎は、声を上げかけた。間に合わない、と思った。手綱を引けば、馬は前脚を突っ張る。突っ張った先に、子がいる。
市は、手綱を引かなかった。
馬の首が、少しだけ道の端へ振れた。馬の体も、その分だけずれた。蹄が一つ、道の端の草を踏んだ。
馬が子の脇を過ぎた。
速さは、落ちていない。子どもの髪が、馬の起こした風で持ち上がった。持ち上がって、また下りた。
「危ないぞ」
市が、過ぎざまに言った。笑っていた。
子どもが、顔を上げた。上げたときには、馬はもう向こうであった。子どもは、立ったまま動かなかった。過ぎていく背中を、首だけで追っていた。
女の一人が駆け寄り、子どもを抱き寄せながら、市の背中を見ていた。長政の背が、鞍の上で伸びた。伸びて、そのまま戻らなかった。長政が母子の前を過ぎ、藤吉郎が続いた。
女は、まだ市の背中を見ていた。こちらには目を向けなかった。
避けたのではない、と藤吉郎は思った。避けるなら、速さが落ちる。市は、通る線を一本ずらしただけであった。
噂は、聞いたことがある。小谷へ嫁いだ信長の妹が、馬に乗って戦に出ている。具足をつけないで、大将だけを取りに行く。行商の者が、酒の席でそう言っていた。言った者も、見たわけではないと笑っていた。藤吉郎も、そのときは笑った。
今は、笑う気にならなかった。見ているのは、戦ではない。畦道を走る背中である。それだけで、笑う気にならなかった。
市と京をとってこい、と信長は言った。何をどうすれば京がとれるのか、藤吉郎にはまだ見当もつかない。市がどこへ向かっているのかも、まだよく知らない。分かっているのは、この人に置いていかれないようにするだけで、骨が折れるということであった。
◇
村を抜けると、道が少し広くなった。馬が二頭、どうにか並べるほどである。田の向こうに、次の村の木立が見えている。日が、その木立の上へ下りかけていた。
前の馬の速さが、落ちた。
藤吉郎は、手綱を引いた。引かなければ、長政の馬の尻にぶつかっていた。
長政が、後ろを振り返った。藤吉郎を見たのではなかった。その顔を越えて、清洲を見ていた。それから、前へ戻した。市の背中を見た。
また、後ろを見た。二度目のほうが、長かった。前へ戻した。口が開きかけて、閉じた。三度目に後ろを見たとき、市の馬は、もう一段先へ出ていた。落とした速さの分だけ、間が開いている。
長政が、馬の腹を蹴った。長政の馬が、前へ出た。市との間が詰まっていく。藤吉郎も、慌てて蹴った。二頭ぶんあった間が、一頭ぶんになり、それもなくなった。
長政が、市へ並んだ。
「市」
市は、前を見たままであった。馬の速さが、少しだけ落ちた。落ちたが、止まりはしない。長政の馬も、それに合わせた。
「なんじゃ」
藤吉郎は、二人のすぐ後ろについた。蹄の音で、声が途切れ途切れになる。
「・・・忘れ物がござりまする。戻りまする」
「そうか」
市は、それだけ言った。何を忘れたのかを訊かない。
藤吉郎は、清洲を出るときのことを思った。門を出るまで、長政は荷に手を触れていない。触れていないものを、忘れたと言っている。
市は、走りながら、少し首を傾けた。傾けたまま、横目で長政の顔を見ていた。見ていて、それから、目が光った。口の端が上がった。
「・・・さては、兄上と戦支度の算段じゃな」
長政は、答えなかった。
「あいわかった。わしは先に戻る」
「猿、おまえも長政についていってやれ。そのほうが兄上に話が通るじゃろ」
振り返らずに、声だけが来た。
藤吉郎は、市の背中を見た。一度も後ろを見ていない。それで、藤吉郎が今どこにいるのかを、分かって言っている。
「はっ」
藤吉郎は、そう答えてから、話の筋を追った。信長のところへ戻るのなら、信長の家の者が一人付いていれば、取次は早い。それはその通りである。市は、それを考えてから言ったふうでも、言ってから考えたふうでもなかった。一息で言って、一息で決めていた。
藤吉郎がそこまで追ったときには、市の馬が、もう前へ出ていた。落としていた速さが、元へ戻っている。長政の馬の鼻先から、市の馬の尻が離れていった。
「市。道中、お気をつけて」
市は、答えなかった。聞こえていたのかどうかは、藤吉郎には分からない。馬は、もう声の届くところから離れていた。
長政が、手綱を引いた。馬が止まった。藤吉郎も、手綱を引いた。
市は、待たなかった。振り返らなかった。遅れていた浅井の騎馬が、そこへ追いついてきた。
「三田村、大野木。市を頼む」
「はっ」
二騎が、止まらずに脇を抜けていった。残りも、続いた。
市の馬は、道の先へ、来たときと同じ速さで離れていく。日の中へ入っていくので、背中がすぐに黒い影になった。まとめた髪の縁だけが、光っていた。その後ろを、追っていった騎馬が、一つずつ影になっていった。
藤吉郎は、口を開けたまま、それを見ていた。影が小さくなって、木立の手前で道を折れて、見えなくなった。
長政も、その影が見えなくなるまで、馬の上から見ていた。
それから、手綱を引いて、馬の向きを変えた。清洲へ戻る向きであった。日が、今度は背中へ回った。長政の影が、馬の前へ長く伸びた。
長政が、馬の腹を蹴った。藤吉郎は、口を閉じて、その後ろへついた。
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