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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第四章 甲賀の里】

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【第四章 甲賀の里】第四十六話 京への供 猿はおるか

 ◇


「猿はおるか」


 信長が、声を張った。上座に近い者が、後ろを振り返った。振り返られた者が、さらに後ろを振り返った。誰かが、猿、と小さく呼んだ。その声が、列の後ろへ順に送られていく。列の末まで行って、柱の向こうへ抜けた。


 市は、庭を見ていた。松の枝である。鳥は、もう枝にいなかった。飛んでいったあとの枝を、市はしばらく見ている。誰を呼んだのかにも、なぜ呼んだのかにも、顔を向けなかった。


 信長は、胸に寄せていた刀を、膝の上へ戻した。


 六角の地は通れる、と市は言った。現実としては、六角の残りは散ったままで、その先には甲賀の山がある。取ったと言っても、まだそういう土地であった。


 それから通ったあとのことも、考えておかねばならない。六角の地の先に京がある。京のまわりには、三好の者がいる。どこに誰がいて、どの道が使えて、どの家が銭で動くのか。信長は、何も知らない。知る者を、京への道に置いておきたかった。


 美濃に向き合っているあいだは、清洲を空けられない。広間に並んでいる者の名を、上座に近い者から順に思い浮かべた。


 柴田がいる。その先も、そのまた先も、どれも戦をさせる者である。美濃へ並べてあるのは、そのためであった。


 京へ出す者は、戦をしに行くのではない。


 適任が一人いる。


 信長が、猿と呼んでいる男である。何を言いつけても、はっ、と言って出ていく。出ていって、どこかから片づけてくる。兵を連れていって片づけた、という話は聞いたことがない。どう片づけたのかも、信長は訊いたことがない。訊かなくても、片づいている。


 いるものは、こちらで持たせればよい。馬を何頭か。使う者は、本人に選ばせればよい。銭は、多めに持たせることにした。あの男は、銭で片づける。


 それに、と信長は思った。市のそばに一人置いておけば、浅井領の様子が、文より早く届く。


 廊下で、返事があった。広間の端に、男が一人入ってきた。


 柱の陰から出て、列の一番後ろのところで、一度だけ足が止まった。止まったのは、瞬き一つほどであった。上座からは遠い。何に足を止めたのかは、信長のところからは見えなかった。男は、また歩き出した。


 木下藤吉郎という。


 小柄である。家臣の列の後ろを回らずに、列と列のあいだの空いたところを、まっすぐこちらへ来た。足が速い。速いのに、畳を踏む音がほとんどしなかった。上座の手前で止まって、膝をついた。手をついて、頭を下げた。


「はっ」


 顔を上げない。呼ばれた理由を訊かない。いつもそうである。信長は、刀を持ち直した。


「市」


 市が、庭から顔を戻した。


「猿をつける。いるものは用意する」


「なんじゃ、猿か」


 市は、藤吉郎へ顔を向けた。市が清洲にいた頃、あの男はもう城にいた。文を持って廊下を走り、言いつけられた先へ走り、戻ってきて、また走っていた。市が見ているのは、それだけである。口をきいたこともないであろう。


 市が小谷へ嫁いで、四年になる。そのあいだにこの男が何をしてきたかを、市は知らない。


 信長は、教えなかった。わざわざ教える必要もない。


 市は、藤吉郎を見た。頭のてっぺんから、ついている手の先まで、一度だけ見た。見て、それで済ませた。


 信長は、その目つきを知っていた。市がまだ小さかった頃、厩へ連れていったことがある。並んでいる馬を、市は端から一頭ずつ、今と同じように見ていった。上から下まで一度だけ見て、次へ移る。気に入った馬の前でだけ、足が止まった。


 藤吉郎の前では、止まらなかった。


「ほかにおらぬのか」


「おらぬ」


 信長は、そう言って、藤吉郎へ向き直った。


「猿、おまえ市と京をとってこい」


「はっ」


 返事は、一度目と同じ速さであった。京をとる、と言われて、いつからかも、誰と行くのかも訊かない。市の顔も見ない。頭を下げた形のまま、止まっている。


 家臣の列の中で、誰かが息を吸った。吸った音だけで、何も言わなかった。上座に近い二人が、目だけで互いを見た。見て、すぐに前へ戻した。京の話を、あの男に振った。そう思った者がいるのであろう。


 信長は、それを放っておいた。浅井の家へ、織田の者を一人入れる話でもある。その当主は、末席にいる。信長は、断っていない。断るつもりもなかった。末席からは、何の音もしなかった。藤吉郎が、止まったまま口を開いた。


「・・・お市様と、にござりまするか」


 信長は、立った。


「猿の分際で口答えするか」


 刀は、持ったままであった。畳を二歩で詰めて、藤吉郎の肩を蹴った。


 藤吉郎の体が、畳へ倒れた。倒れて、すぐに起きた。起きて、また同じところに手をついた。


「申し訳もござりませぬ」


 信長は、もう一度蹴った。今度は脇である。藤吉郎は、畳の上で体を丸めた。丸めたまま、頭だけを下げていた。


「申し訳もござりませぬ」


 同じことを言っていた。声は、震えていなかった。


 信長は、足を止めた。広間は、静かであった。家臣は、誰も動かない。膝の上の手も、目も、動かさなかった。こういうとき、動く者はいない。


 末席で、衣擦れの音がした。一度ではなかった。止まらなかった。


 信長は、そちらを見なかった。市を見た。


 市は、動いていなかった。膝の上に手を重ねたままである。顔も、さっきと同じところを向いていた。


 清洲にいた頃から、見ている。信長が誰かを蹴るのを、市は何度も見ている。


 信長は、上座へ戻って、座った。膝の上へ刀を置いた。


「兄上、猿は馬に乗れまするか」


「乗れる。遅うはない」


「ならよい」


 市は、それだけ言った。藤吉郎のことは、もう見ていなかった。膝の上で手を重ね直して、上座へ向き直っている。


 信長は、それを見ていた。さっき刀を断ったときと、同じ顔であった。やらぬと言っても、やると言っても、市はすぐに次を見る。


 藤吉郎が、頭を少し上げた。上げて、それから、目が家臣の列へ流れた。


 信長でも市でもない。家臣の列を越えた先である。列の後ろの、さらに後ろ。広間の端を見ていた。


 何を見ているのかは、信長には分からなかった。列の後ろには、柱と廊下があるだけである。藤吉郎が今しがた入ってきたところであった。信長は、そちらへ目をやらなかった。


 藤吉郎の目は、しばらくそこにあった。それから戻ってきて、畳についた自分の手の先で止まった。


 信長は、膝の上の刀を握ったままであった。市が、立った。立ってから、信長へ向き直った。


「京は、市にお任せくださりませ」


 信長は、市の顔を見た。見ているあいだに、市は身を返していた。


 家臣の列のあいだを、来たときと同じ歩幅で戻っていく。末席で平伏している者の脇を、そのまま通った。顔も、向けなかった。


 板の鳴る音が、廊下へ遠ざかった。途中で、速くなった。


 藤吉郎は、まだ畳に手をついていた。


「猿。ぼけっとするな。行け」


「はっ」


 藤吉郎が立った。立って、市の出ていった先へ走った。畳を踏む音は、やはりしなかった。


 末席で、まだ衣擦れの音がしていた。


 信長は、そちらを見なかった。


「長政。おまえもぼけっとするな。はよ行け」


「はい」


 遠くから、声が返ってきた。畳に向かって出している声である。さっき、誠か、と訊いたときと、同じであった。


 衣擦れの音が、立ち上がる音になった。廊下へ抜けていった。足が、速かった。


 広間に、家臣だけが残った。

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