【第四章 甲賀の里】第四十五話 信長との再会 市、顔が怖いぞ
一五六四年 初夏 尾張 清洲
信長は、朝から刀を手にしていた。
今朝、届いたものである。白鞘から拵えに移したばかりで、柄糸がまだ硬い。一度抜いて、見て、納めた。それから、手から離していない。
広間は、庭側の障子を外してあった。初夏である。庭の砂に日が照り返して、上座の方まで明るかった。家臣が二列。末の方は、広間の端の柱のあたりまで続いている。その向こうが廊下である。
浅井が来る、と先に聞いていた。伊勢を回ってくるという。
美濃は斎藤が押さえていて、通れない。北近江から峠を越えて伊勢へ出て、桑名から船で川を渡る。小谷から清洲までは、長い道であった。
姫が生まれたという文は、それより先に届いている。短い文であった。生まれたことと、母子ともに障りのないことだけが書いてあった。信長は、それを読んで、脇へ置いた。置いてから、もう一度取って読んだ。
取次の声がした。
「浅井備前守様、お着きにござります」
廊下の方が動いた。先に入ってきたのは、市であった。取次の者を追い越している。追い越された者が、後ろで足を止めた。市は、家臣の列のあいだを、まっすぐ上座の方へ歩いてきた。
歩幅も足の音も、嫁ぐ前と変わっていない。
上座の少し下がったところで止まって、座った。そこに座れと言った者はいない。清洲にいた頃、市が座っていた場所である。
「兄上、お久しゅうござりまする」
「うむ」
信長は、市の顔を見た。髪はまとめてあるが、耳の脇から一筋ほつれていた。道中で直さなかったらしい。膝の上に手を重ねて、背を伸ばしている。座り方は、清洲にいた頃と同じであった。
春に子を産んだばかりである。その体で、峠を越え、船に乗り、長い道を来た。信長は、そこまで考えて、やめた。
浅井領には、用がない。用があるのは、六角の地である。六角の地が空くのなら、京への道が通る。通れるかどうかだけを、信長は知りたかった。
六角が崩れたことは、文で知っている。
信長は、刀の柄を握り直した。末席の方で、衣擦れの音がした。家臣の列のさらに後ろに、誰かが座った。座って、そのまま平伏した。口上を述べている。遠いので、言葉までは届かない。取次の者が、それを受けて何か返した。
信長は、そちらを見なかった。刀を少し傾けた。鞘の塗りに、庭の光が細く走った。
「市、近江はどうじゃ」
「もうすぐ全部取れまする」
市は、すぐに答えた。考えてから言った間がない。
「京へは」
「通れまする」
信長は、鞘の上に指を置いた。
京である。
京に上ると、ずっと言ってきた。言ってきて、まだ美濃の先へ出ていない。美濃が塞がっている。斎藤を片づけないうちは、自分では動けない。片づくのがいつになるかは、信長にも読めなかった。
美濃を片づけて先へ出たとき、六角の地が塞がっていれば、また止まることになる。そこが、通れると言っている。
四年前、この妹は、京への道はこの市が作ってみせる、と言って出ていった。信長が日頃から口にしていたことを、そのまま持っていっただけの言葉である。頼んだ覚えはない。
信長は、市の方を見なかった。
「長政、誠か」
信長は、そう言った。刀の方を見たまま、声だけを末席へ投げた。
「はい」
遠くから、声が返ってきた。平伏したままの声である。畳に向かって出しているので、くぐもっていた。
「わしがそう言うておるではないか」
市が言った。信長の方を向いている。眉が寄っていた。清洲にいた頃、止められたときにしていた顔と、同じであった。
「であるな」
信長は、そう言った。末席の返事を聞いて、そう言ったのではなかった。末席へは、それきり何も言わなかった。
家臣の列の中ほどで、誰かが扇を膝に置いた。置く音が、小さく聞こえた。
信長は、市の方へ体を少し回した。回すと、膝の上の刀も一緒に回った。
「これより、上様を立てる」
公方は、この年の初めに京で討たれている。討ったのは三好である。弟が一人、越前に落ちていると聞いた。朝倉のところに置かれていて、誰にも担がれていない。
それを引き出して、立てる。立てれば、京へ上る名目になる。
「上様とは、兄上のことにござりまするか」
信長は、市の顔を見た。からかっている顔ではなかった。
「ちがうわ。京の公方じゃ。そんなこともしらんのか」
「なんじゃ。兄上のことではないのか」
市は、そう言った。それから、少し黙った。黙っているあいだ、信長の顔を見ていた。信長は、二度目は言わなかった。
市の目が、横へ動いた。庭の方である。すぐに戻ってきた。
「では、上様など、ただの飾りでしかありませぬな」
家臣の列が、静かになった。もともと誰も喋っていない。それでも、静かになったのが分かった。前の方の一人が、目だけを上げて市を見た。見て、すぐに下げた。
信長は、口の端を上げた。
「それがいちばんであろう」
飾りでよい。飾りの方が、使いやすい。
「飾りなど、いりませぬ。あとでめんどうになりまする」
市は、言い切った。信長は、口を閉じた。
面倒になる、というのは、信長も考えないではなかった。担いだものが、担いだ者の言うことを聞くとは限らない。聞かなくなったときに、下ろすのに手間がかかる。
市が、そこまで考えて言っているとは思えなかった。
「どうする」
「全部踏みつぶしまする」
市は、そう言った。笑っていた。口の端が上がっている。目は、笑っていなかった。まっすぐ信長の方を向いていて、瞬きをしない。
家臣の列の前の方で、一人が膝の上の手を握った。信長は、それを目の端で見た。
見てから、市へ目を戻した。市は、まだ同じ顔をしていた。
「・・・市、顔が怖いぞ」
「御冗談を」
市は、そう言って、今度は目も笑った。信長は、息を吐いた。吐いてから、膝の上の刀を置き直した。いつのまにか、柄を握る手に力が入っていた。
話は、そこで途切れた。信長は、次に何を訊くかを考えていた。考えているあいだ、親指が柄の上を行ったり来たりした。
市の目が、そこで止まった。信長の顔ではない。膝の上である。
「兄上、その刀は」
「これか。清洲のものに打たせた」
信長は、刀を少し持ち上げた。市が、身を乗り出した。膝で半歩寄って、鞘の先から柄までを、目でたどっていく。鍔のところで止まって、また柄へ戻った。
「よい刀にござりまするな」
「おまえにわかるのか」
「わかりまする」
「ほう」
信長は、市の顔を見た。分かっている顔なのかどうかは、信長には分からなかった。抜いてもいない刀である。鞘と柄と鍔しか見えていない。
それでも、市はそう言った。
「市にくださりませ」
市が、手を出した。両の手のひらを上へ向けて、信長の膝の方へ差し出している。
その出し方は、小さい頃と変わっていなかった。欲しいものがあると、こうして両手を出す。出して、待つ。
信長は、刀を引いた。引いて、自分の胸の方へ寄せた。
「やるわけがなかろう。これはわしのじゃ」
「そうでござりまするな」
市は、手を引っ込めた。すぐであった。粘らなかった。膝の上に手を戻して、重ねた。
それから、庭の方へ顔を向けた。庭の松の枝に、鳥が一羽下りている。市は、それを見ていた。鳥が枝を移ると、市の顔もそちらへ動いた。信長は、刀を胸に寄せたまま、市の横顔を見ていた。
市は、もう信長の膝の方を見なかった。
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