【第四章 甲賀の里】第四十四話 初
一五六四年 春 近江 小谷
長政が奥の棟へ行ったとき、支度はもう済んでいた。
屏風が褥を三方から囲んでいる。板は冬のうちに入れ替え、隙間には紙を詰めてあった。隣の間には釜が二つ据えてある。台所から運べば、廊下を三度折れるあいだに湯がぬるくなる。茶々のときも、ここで沸かしていた。
晒は棚に積んである。産着は畳んで箱へ入れ、替えまで揃えてあった。水を張った桶が壁に沿って並び、その脇に柄杓が伏せてある。
長政は、言うことを探して棟の中を一回りした。女中頭は頭を下げると、すぐに女たちのところへ戻った。低い声で言いつける。言われた者が動く。訊き返す者も、走る者もいなかった。
どれも、長政が何か言う前に整っていた。
ほかの女たちも、長政の前を通るたびに頭を下げた。そのまま通り過ぎていく。長政は棚の前で足を止めたが、何も言わなかった。
廊下の端では、乳母が茶々の手を引いていた。茶々は引かれながら、屏風の方を指した。
「ははさま」
乳母が茶々の手を取って下ろさせた。茶々はもう一度上げ、今度は下ろされる前に自分で下ろした。それでも屏風の方を見ていた。
長政が声をかける前に、乳母は茶々を抱き上げた。茶々は暴れず、首だけを回していた。その顔が、長政の肩の高さで一度こちらを向いた。それから乳母の肩の向こうへ行った。
◇
長政は自分の部屋へ戻り、野洲川の近くから届いた書付を開いた。川の近くへ置いてある者が、書いて寄越したものである。
六角の残りが、川向こうの野に出ている。人の数は分からない。家ごとの小旗がいくつか見えた。四つ目結の旗は、まだ立っていない。先に来た書付より、旗は増えていた。
先年、市に当主を討たれて散った者が、また寄りはじめている。散ったきり、まだ散りきっていない。倅は山中へ落ちたと聞いている。だが、誰のもとへ寄っているのかは書かれていなかった。旗の見えた場所だけが記されていた。
長政は、もう一度頭から読んだ。二度目も、同じことが書いてあった。
昼を過ぎても、廊下を人が何度か通った。湯を替えに行く者と、戻ってくる者である。長政はそのたびに顔を上げ、書付へ戻した。同じところを三度読んだ。
◇
日が傾きかけた頃、女が一人来た。
「始まりました」
長政は、書付を開いたまま立った。奥の棟まで行き、止められる前に足を止めた。
屏風の向こうで、女たちが短く言い交わしている。隣の間では釜の蓋が鳴った。誰かが湯を汲み、また鳴った。
長政は廊下に膝をつき、声のする方を見ていた。市の声は、ほとんど聞こえなかった。
湯を運ぶ者が一人出てきた。空になった桶を抱え、長政の前を通っていく。戻るときには湯気が上がっていた。長政は場所を空けなかった。女の方が、廊下の端を通った。
日が板の継ぎ目を一つ越え、もう一つ越えた。柱の根元まで来て、その影へ入った。
赤子の声がした。
高い声が一度途切れ、また上がった。女中頭が屏風の端から出てきた。
「姫様にござります」
「市はどうか」
「お変わりござりませぬ」
女中頭が戻ってから、長政は立とうとした。膝をついたままであったことに、そこで気づいた。板に手をついて立つ。膝の下が、板の目のかたちに痺れていた。
屏風の内では、人が動いたあとであった。湯の桶が壁際へ寄せてある。使った晒は盆の上に重ねられ、女が一人、それを持って外へ出ていった。
乳母が赤子を抱いていた。布に包まれた顔が赤い。口を開けて、まだ泣いている。
市は褥の上で半身を起こしていた。額に髪が張りついている。女が手拭いを出したが、市は待たずに自分の袖で拭った。
「市。ご無事で、何よりにござりまする」
市は長政を見ず、赤子を見ていた。
「なんじゃ、またおなごか。おのこではなかった」
乳母が赤子を差し出した。長政は首の下に手を入れ、両腕で輪を作った。茶々のときに見た抱き方へ、手が入った。
軽かった。
泣き声が少しずつ小さくなった。口はまだ動いている。目は開いていない。長政は顔を近づけ、目のあたりから鼻のあたりへ見ていった。
「市に、よう似ておりまする」
乳母が少し顔を上げ、また下げた。長政はもう一度顔を近づけた。似ているところを、もう一つ探すように見ていた。
市が手を伸ばした。長政は赤子をその腕へ渡したが、手をすぐには引かなかった。
市は抱いて顔を見た。前のときと同じように少し揺らすと、赤子は泣きやんだ。
しばらくして乳母へ返し、褥から足を下ろした。長政の腰が浮いた。
「市、まだ・・・」
女たちは手を出さなかった。一人が屏風をずらして道を空け、女中頭は羽織を取った。前のとき、市は半刻ほどで庭へ出た。戻った裾に土がついていたことを、ここにいる者は見ている。
市が立ち、一歩歩いた。二歩目で体が傾いた。戻らなかった。
長政はもう立っていた。市の腕を取り、肩を抱いた。市の重さが、そのまま腕へ来た。
市はもう一度足を出そうとした。膝が折れ、長政が両腕で受けた。
「動いてはなりませぬ」
声が大きかった。屏風の内へ響いた。
「・・・はなせ」
一度だけであった。長政は離さなかった。
「なりませぬ」
二度目は小さかった。女中頭は羽織を持ったまま立っていた。屏風をずらした女も、そこに立っている。誰も動かなかった。
長政は膝をつき、市の背へ手を回して褥へ下ろした。片方の手が遅れた。頭を受けるのが間に合わなかったが、畳んだ布の上であった。音はしなかった。
手は、背の下に入れたままであった。市は目を開け、天井を見ていた。息は荒い。馬から降りたばかりのときと同じ息の仕方であった。
長政はその顔を見ていた。額に髪が張りついている。空いている手が出て、横へ避けた。市は何も言わなかった。
女たちが下がりはじめた。乳母が赤子を抱いて先に出た。湯の桶を持った者が続いた。女中頭は羽織を畳んで枕元へ置き、ずらしてあった屏風を戻して下がった。
息が少しずつ間遠になった。市の目が閉じた。背の下の手から力が抜けていった。
長政は、手を抜かなかった。
◇
しばらくして、屏風の端に小さいものが入ってきた。茶々であった。
一人であった。乳母は後ろにいない。屏風の端に手をつき、そこから先へは来ない。長政の顔を見て、市の顔を見て、また長政へ戻った。何度も行き来していた。
長政は、呼ばなかった。追い返しもしなかった。
外が暗くなりはじめた。誰かが灯を置いて下がった。明かりが屏風の紙に当たった。
市の息は静かであった。長政はまだ座っていた。
「・・・長政」
目は閉じたままであった。長政は市の顔を見た。
「・・・次はどこをとるのじゃ」
市はそれきりであった。口が、少し開いている。息が、また間遠になった。
長政は、答えなかった。茶々が屏風の端から、まだ長政の顔を見ていた。
長政は、そのままにしておいた。
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