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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第三章 長政と久政】

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【第三章 余話】第四十話余話 駆け寄る長政 待っておったぞ

 ◇


 城の前で、市が待っていた。


 道の出口の正面である。初陣から戻ったときも、六角を平らげて戻ったときも、父が立っていた場所であった。


 いまは、市がいる。


 馬にも乗らず、薙刀も持っていない。ただ一人で立ち、山道を上がってくる長政を見ていた。


 小谷でおぬしを待つ。


 市は、言ったとおりに待っていた。


 長政の手から、手綱が滑りそうになった。


 父の兵が退き始めても、床几から立たなかった。逃げる背を追えば取れると分かっていても、追撃を命じなかった。


 最後まで市の馬を探さなかった。市ならどうするかとも考えず、自分で兵を動かした。


 声は震えなかった。指図も途切れなかった。


 それなのに、市の顔を見た途端、何も考えられなくなった。


 馬を止める。鐙から足を外し、地面へ下りた。


 近くの者が手を伸ばしてきた。長政は相手の顔も見ず、その手へ手綱を押しつけた。


 市だけを見た。


 一歩、足が出た。


 次の一歩は、もう走っていた。


「長政」


 市の目が少し大きくなる。


 長政は止まれなかった。


 市の身体へ腕を回し、そのまま強く抱き寄せた。具足が触れて硬い音を立て、市の身体が半歩後ろへ動く。


「なんじゃ」


 市の声が、すぐ耳元で聞こえた。


 長政は答えなかった。


 腕の中に市がいる。頬へ市の髪が触れている。息を吸うと、土と馬の匂いに混じって、市の匂いがした。


 ようやく帰ってきた。


 小谷へではない。


 市のところへ帰ってきた。


 長政は目を閉じた。市の背へ回した腕に、また力が入る。


「長政、苦しいぞ」


「・・・申し訳ござりませぬ」


 謝りながら、少し緩めただけで腕は離さなかった。


 市も押し返そうとはしない。行き場をなくしていた手が、やがて長政の背へ触れた。


 指が、長政の衣を掴む。


 それだけで、張りつめていたものが身体の中から抜けていった。


「よい知らせは、持って帰ったのか」


「はい」


 長政は市を抱いたまま答えた。


「父上は退かれました。追ってはおりませぬ」


「そうか」


 返ってきたのは、それだけであった。


 長政の背を掴んだ市の指は、離れなかった。


 長政は腕を緩め、市の顔を見た。


 近い。


 市も長政を見上げている。驚いた顔はもう消えていた。


 長政は、その目を見たまま口を開いた。


「ただいま戻りました」


 市の口元が、わずかに上がる。


「うむ。待っておったぞ」

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