【第三章 余話】第四十話余話 駆け寄る長政 待っておったぞ
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城の前で、市が待っていた。
道の出口の正面である。初陣から戻ったときも、六角を平らげて戻ったときも、父が立っていた場所であった。
いまは、市がいる。
馬にも乗らず、薙刀も持っていない。ただ一人で立ち、山道を上がってくる長政を見ていた。
小谷でおぬしを待つ。
市は、言ったとおりに待っていた。
長政の手から、手綱が滑りそうになった。
父の兵が退き始めても、床几から立たなかった。逃げる背を追えば取れると分かっていても、追撃を命じなかった。
最後まで市の馬を探さなかった。市ならどうするかとも考えず、自分で兵を動かした。
声は震えなかった。指図も途切れなかった。
それなのに、市の顔を見た途端、何も考えられなくなった。
馬を止める。鐙から足を外し、地面へ下りた。
近くの者が手を伸ばしてきた。長政は相手の顔も見ず、その手へ手綱を押しつけた。
市だけを見た。
一歩、足が出た。
次の一歩は、もう走っていた。
「長政」
市の目が少し大きくなる。
長政は止まれなかった。
市の身体へ腕を回し、そのまま強く抱き寄せた。具足が触れて硬い音を立て、市の身体が半歩後ろへ動く。
「なんじゃ」
市の声が、すぐ耳元で聞こえた。
長政は答えなかった。
腕の中に市がいる。頬へ市の髪が触れている。息を吸うと、土と馬の匂いに混じって、市の匂いがした。
ようやく帰ってきた。
小谷へではない。
市のところへ帰ってきた。
長政は目を閉じた。市の背へ回した腕に、また力が入る。
「長政、苦しいぞ」
「・・・申し訳ござりませぬ」
謝りながら、少し緩めただけで腕は離さなかった。
市も押し返そうとはしない。行き場をなくしていた手が、やがて長政の背へ触れた。
指が、長政の衣を掴む。
それだけで、張りつめていたものが身体の中から抜けていった。
「よい知らせは、持って帰ったのか」
「はい」
長政は市を抱いたまま答えた。
「父上は退かれました。追ってはおりませぬ」
「そうか」
返ってきたのは、それだけであった。
長政の背を掴んだ市の指は、離れなかった。
長政は腕を緩め、市の顔を見た。
近い。
市も長政を見上げている。驚いた顔はもう消えていた。
長政は、その目を見たまま口を開いた。
「ただいま戻りました」
市の口元が、わずかに上がる。
「うむ。待っておったぞ」
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