【第三章 余話】第三十八話余話 市を帰す長政 小谷でおぬしを待つ
◇
「父上・・・」
声が途中で消えた。
市の指の先に絵図がある。街道を示す一本の線と、父の陣がある場所である。
だが、長政に見えていたのは絵図ではなかった。
朝倉の騎馬の中にいた父。左手に手綱をまとめ、こちらを見ようともしなかった横顔。
父へ向かって飛び出した市。手綱を掴んだとき、掌へ食い込んだ革。父を見たまま、長政を見ようとしなかった市の横顔。
離した指。
遠ざかっていく父。
その父が、いまも戻らずにいる。
なぜ。
何を考えている。
これから、どうすればよい。
同じものばかりが、頭の中を回っていた。答えへ進もうとするたび、馬上の父の姿へ戻ってしまう。
長政は膝の上で指を握り込んだ。爪が手の甲へ食い込んでも、父の姿は消えなかった。
市の指が、絵図から離れる。
「此度はわしではない」
言葉は聞こえた。
だが、意味が入ってこなかった。
わしではない。
何が。
誰が。
長政は、ゆっくり顔を上げた。
市がすぐ前に立っていた。薙刀を片手に持ち、真っすぐ長政を見ている。
いつもの笑みはない。怒っているようにも見えなかった。
ただ、長政が顔を上げるのを待っていた。
「長政、ぬしが出よ」
自分の名を呼ばれた。
それでも、まだ分からなかった。
市の唇がもう一度動く。
「おぬしが決着をつけてこい」
決着。
自分が。
長政は市の顔を見たまま、瞬きを忘れた。
市が行くのではない。
市は父の前へ出ない。
そのことだけが、ほかの意味より先に胸へ入ってきた。
長政の口から、詰まっていた息がこぼれた。
市の薙刀が父へ向くことはない。父の刃が市へ届くこともない。
その二つの姿が、頭の中から薄れていく。
市は、ここにいる。
安堵したあとで、ようやく残りの言葉が届いた。
おぬしが決着をつけてこい。
市ではない。
長政が父の前へ出る。
長政が決める。
逃げる場所は、もうなかった。
「・・・わかりました」
声がかすれた。
長政は立ち上がった。床几が後ろへずれ、脚が地面を擦る。
市と向かい合う。
近い。
少し手を伸ばせば、袖へ触れられる。市の頬にかかった髪も、薙刀を握る指も見えた。
ここにいてほしい。
父の前へ出るときも、振り返れば見えるところにいてほしい。声の届くところにいてほしい。
長政の唇が動いた。
「では市は、小谷に戻っていてくだされ」
「なぜじゃ」
返事は早かった。
市の眉がわずかに寄る。長政を見つめたまま、答えを待っている。
ここにいてほしい。
父の前へ出るときも、市の声が聞こえるところにいてほしい。振り返れば姿を確かめられるところにいてほしい。
だが、市がいれば、長政は市とともに駆ける。
市が馬を出せば、その左へつく。大野木を右へ置き、三田村に大将を探させ、野村には替えの馬と薙刀を持たせる。
考えるより先に、そうする。
父の旗が見えれば、市の馬をそこまで通そうとする。槍を払い、道を開け、市が父の前へ出られるようにする。
いつものように。
それでは、市の戦になる。
市が父を落とし、長政がそのあとの始末をする。父との決着まで、市に渡すことになる。
違う。
此度は、そうしてはならない。
市が言ったのだ。
おぬしが決着をつけてこい。
父の前へ出るのは、市ではない。長政である。
市の馬を追うのではなく、自分で兵を動かす。市の薙刀へ道を開けるのではなく、父の手を自分の手で受ける。
父が何をしてくるのかを見る。その一つ一つへ、自分で答える。
これは、父と長政の戦である。
市の左へ行ってはならない。
長政は、市の目を見た。
本当のことを言えば、市はどのような顔をするのだろう。
市がいると、ともに突撃してしまう。
市へ父を討たせてしまう。
だから帰ってほしい。
そこまで口にすれば、決意が揺らぎそうであった。市に、ならばわしも残ると言われたら、拒める自信がない。
「よい知らせを持って帰りまする」
ようやく出たのは、それだけであった。
理由にはなっていない。
それでも、長政の中では決まっていた。
市とは行かない。
自分の戦い方で父と向き合い、決着をつける。その結果を持って、市の待つ小谷へ帰る。
市は何も言わず、長政を見ていた。
長政も目を逸らさない。いま逸らせば、ここにいてほしいという気持ちが顔へ出てしまいそうであった。
「三田村。市を頼む」
「はっ」
三田村の返事が聞こえた。
市はまだ動かなかった。
帰らないと言うのかもしれない。
長政は、市の唇が動くのを待った。市の目が自分から離れ、絵図へ落ちるだけで、指へ力が入った。
市は父のいる場所を見た。次に、長政が動かせずにいる石を見る。
「そうか」
市が顔を上げた。
「わしがおったら、わしに頼ってしまうというわけじゃな」
長政は息を止めた。
言い当てられた。
市がいれば、頼る。
市の強さだけではない。迷わず馬を出す背中に頼り、その左を走る自分へ戻ってしまう。
だが、此度はそれではならない。
頼りたい市を帰し、自分で父の前へ出なければならない。
長政は何も答えなかった。
違うとは言えない。そうだと認めれば、声が弱くなりそうであった。
市の口の端が、ほんの少し上がる。
長政が言えなかったことを、自分で見つけた顔である。
その顔を見た途端、握り込んでいた長政の指から力が抜けた。
市は分かってくれた。
帰ってくれる。
長政は何も言わず、市を見つめた。
市の笑みが、わずかに深くなる。
「あいわかった。小谷でおぬしを待つ」
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