【第三章 長政と久政】第四十三話 久政と赤尾 わしに、よう付き合うてくれたな
◇
呼ばれたのは、その日の夕方であった。
赤尾清綱は、門の脇にある小屋にいた。越前へ来てから、そこで寝起きしている。
屋敷は狭い。久政の部屋と、食事をする部屋。それから、供の者が詰める部屋がある。小谷から来た者が全員入れば、それだけで埋まる。
小屋には、板を渡しただけの寝台が一つある。壁には、雨の日に使う蓑が掛かっていた。戸を閉めても、川の音が聞こえる。
番の者が呼びに来た。
「大殿がお呼びにございまする」
「承知した」
赤尾は立った。袴の膝についた皺を伸ばし、帯を直した。外へ出ると、日は谷の西側へ隠れかけていた。一乗谷は、平地より早く暗くなる。
昼に、長政が来ていた。
中へ入ったのは長政だけである。赤尾は門の外で、供の者とともに馬を見ていた。何のために来たのか、誰も言わなかった。
父を迎えに来たのであろうとは思った。
半刻ほどして、門が開いた。草履が地面へ下りる音がした。赤尾は鞍紐を見ていた。長政が馬に乗り、供とともに道へ出てから顔を上げた。
見えたのは、列の後ろだけであった。
赤尾は、屋敷へ入った。廊下を二度曲がると、久政の部屋に着く。襖は開いていた。
久政は、文机の前に座っている。
机の上の書付は片づいていた。
昼には三枚あった。一枚は朝倉から届いたもの。一枚は北近江から来たもの。もう一枚は、久政が自分で書いたものである。中身は知らない。
いまは、文箱の蓋が閉じてある。硯箱も机の脇へ寄せられていた。
赤尾は正面まで進み、膝をついた。
「お呼びにございまするか」
久政は、しばらく赤尾を見ていた。
「おまえ、浅井に仕えて、もうどれくらいになる」
赤尾は答えなかった。
数えれば出る。初めて小谷へ上がったときには、まだ久政の父がいた。久政が当主となり、六角へ頭を下げに行く供もした。北の郷へ触れを持って走った。長政が生まれた日にも、元服した日にも、城にいた。
年は出る。出るが、口にする気にはならなかった。
「長うございまする」
久政も、訊き直さなかった。
「おまえは浅井にとって、なくてはならん」
赤尾は頭を下げた。返す言葉がなかった。
久政が、そういう言い方をするのを聞いたことがない。
戦から戻っても、よくやったとは言わない。頼んだことが片づいても、助かったとは言わない。報せを持っていけば聞く。聞いて、そうか、と返す。必要ならば、次のことを言う。それだけであった。
赤尾だけではない。ほかの者にも同じである。
それでも、皆が仕えてきた。
「わしに、よう付き合うてくれたな」
「大殿」
赤尾は顔を上げた。
久政は、こちらを見ている。小谷の古い棟にいたときと変わらない顔であった。木之本で、退けと命じたときとも変わらなかった。
「これからは、長政に仕えよ」
赤尾は、顔を上げたままであった。
「浅井は、あいつのものじゃ」
久政は、そこで言葉を切った。
「よいな」
赤尾は、また頭を下げた。
久政について小谷を出た。一乗谷まで来た。朝倉の兵とともに北近江へ戻り、木之本で長政の兵と向かい合った。退いたあとも、久政のそばにいた。
命じられたからではない。自分で残った。
いま、初めて戻れと言われている。
頭を下げたところで、川の音が耳へ入った。ずっと鳴っていたはずである。この屋敷へ来た日から、昼も夜も聞こえていた。
いまになって聞こえた。
「浅井の家を」
久政が言った。
「長政を、頼んだぞ」
赤尾は息を吸った。すぐには声が出なかった。もう一度、吸った。
「はっ」
声が出た。
「この命に代えましても、お守りいたしまする」
思ったより大きな声であった。廊下にいた者が、足を止めた気配がした。
久政は、一度だけうなずいた。
それから机へ向き直り、閉じた文箱を見た。赤尾の方へは、もう顔を戻さなかった。
それきり、何も言わない。
赤尾は立った。もう一度頭を下げ、部屋を出た。自分で襖を閉めた。
小屋へ戻り、荷をまとめた。
衣が二枚。小刀が一つ。書付を包む布。木之本で使わずに残った傷薬。それだけであった。槍は手に持つ。
半刻もかからなかった。
明日の朝に出てもよい。日が落ちてから、山へ向かうことはない。
赤尾は、しばらく座っていた。
それから立った。荷を背負い、槍を取った。久政の部屋がある方を見ず、小屋を出た。
門の番へ、出るとだけ告げた。番の者は行き先を訊かなかった。
門を出ると、川の音が後ろへ遠ざかっていった。
◇
赤尾は、その日のうちに一乗谷を出た。
谷の外の村で馬を借りた。銭を渡し、次に浅井の者が来たとき返すと約束した。夜は山へ入る手前で休み、明るくなると、すぐに出た。
長政の列へ追いついたのは、山を越えるあたりであった。
赤尾は、後ろから馬を寄せた。供の一人が気づき、前へ声をかけた。
長政が振り返った。赤尾を見た。馬を止めなかった。
赤尾も、頭を下げただけである。
長政は、久政が何を言ったのか訊かなかった。なぜ赤尾だけが来たのかも訊かなかった。
供の者が、列の後ろを空けた。赤尾は、そこへ入った。
小谷まで五日かかった。
門の者が名を訊いた。赤尾清綱と答えた。門が開いた。
誰も、越前で何があったのかを訊かなかった。久政は戻らないのかとも訊かなかった。赤尾も何も言わなかった。
春に空いた部屋が、そのままになっていた。具足も槍も残っている。文机には、途中まで見ていた書付が置いてあった。紙の端に、薄く埃が積もっている。
赤尾は、そこへ入った。
翌朝、埃を払った。
次の日から、前と同じ場所に座って、帳面の続きを書いた。
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