【第三章 長政と久政】第四十二話 猿夜叉
一五六三年 秋 越前
使者を出し始めて、半年になる。
文面は変えていない。浅井に内訌はござらぬ。父を追放してもおらぬ。父はいずれ迎えに参る。朝倉が兵を引いてからも、出し続けた。
長政は、越前へ入った。
一乗谷の外れに、その屋敷はあった。川沿いに建ち、街道から細い道へ入って、家のあいだを二度曲がる。最後の角を過ぎるまで、門は見えなかった。
朝倉から与えられたものだと聞いている。門と番の者が一人。土塀は低く、庭には石がいくつか置かれているだけであった。
与えられたといっても、譲られたのではない。住んでよい。それだけであろう。
そういう屋敷が、一乗谷にはいくつもある。京から落ちてきた者。争いに負けて家をなくした者。国を追われ、朝倉を頼った者。その者たちがしばらく置かれる。
しばらくが何年にもなり、いつの間にか朝倉の家中に数えられる者もいる。
久政がどちらになるのかは、まだ決まっていなかった。
長政は、供を門の外に残した。連れてきたのは五人である。小谷を出るときには、もっと連れていけと言われた。越前へ入るなら足りないとも言われた。
増やさなかった。兵を連れてくるところではない。
馬を降り、衣の裾を払った。山を越えるあいだについた土は、すべて落ちなかった。
門の前へ進む。番の者が、槍を持って立っている。
「北近江の浅井長政と申す。父に会いたい」
番の者は、長政の顔と供の数を見た。それから頭を下げ、奥へ入った。門は閉めなかった。
長政は外で待った。川の音がする。供の馬が脚を動かし、蹄の当たった小石が道の端へ転がった。
しばらくして、番の者が戻った。
「お通しせよとのことにございまする」
久政が会うと言ったのか、屋敷を預かる者が通せと言ったのかは分からない。長政は訊かなかった。
門を入り、式台へ上がった。廊下を二度曲がると、奥へ着いた。
歩きながら、長政は部屋の数を数えた。四つあるかどうかである。一つには槍が二本。もう一つには畳んだ褥が見えた。
小谷の古い棟より狭い。久政が使っていた部屋だけで、この屋敷の二つぶんはあった。
案内の者が襖の前で止まった。
「浅井備前守様、お越しにございまする」
中から短い返事があり、襖が開いた。
久政は、文机の前に座っていた。
部屋にあるものは少ない。文机。硯箱。衣桁。小さな文箱。机には三枚の書付があり、一枚だけ開いていた。
久政は、その一枚を見ていた。長政が入ると顔を上げた。驚いた顔ではない。誰が来たのかを確かめ、長政だと分かってから、そういう顔になった。
長政が入ると、襖が閉まった。案内の者は残らない。
二人だけになった。
長政は、久政から少し離れたところへ膝をついた。両手を畳へ置き、額がつくところまで頭を下げた。
「父上。お戻りくだされ」
久政は答えなかった。長政も、頭を上げない。
川の音が聞こえる。水が石へ当たり、同じ音を繰り返していた。
「いてもらわねば、困りまする」
家中のためとは言わなかった。北の郷を知る者が要るとも、朝倉との話を収めるためとも言わない。
いてもらわねば困る。それだけであった。
久政は、長政の頭を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「猿夜叉」
長政は頭を上げた。
その名で呼ばれたのは、久しぶりである。元服してからは、ほとんどない。家臣の前では一度もなかった。市が浅井へ来てからも呼ばれていない。
この屋敷には、二人しかいなかった。
「わしがおると、皆がわしの方を見よる」
久政は、長政を見ていた。
長政は答えなかった。言われた意味は分かる。
評定で久政が顔を曇らせれば、家臣がそちらを見る。筋が通らぬと言えば、触れが一日遅れる。蔵の米が減り、使者が止まる。
何も命じなくても、人が久政の方を見る。
それが戻らない理由になるとは、長政には思えなかった。皆が見るのなら、見ればよい。父が言えば皆が従う。それで困ったことは、若狭まで一度もなかった。
若狭では、久政の言葉が通り、長政の言葉が通らなかった。兵が来ず、糧が減り、道も塞がれた。
それでも、父がいなければよかったとは思っていない。城を出たあとも、木之本で向かい合ったときも、思わなかった。
久政が続けた。
「お前は、もう大名じゃ」
声は、城にいた頃と変わらない。
「お前が浅井の当主じゃ」
長政は、久政を見た。
「もう、わしの代は終わった」
「父上・・・」
久政は、机へ目を落とした。一番上の書付へ手を置いた。畳むことはしなかった。
「孫の顔くらい、見せにこい」
茶々の名は言わなかった。
長政は、すぐには答えられなかった。
市から、また子ができたと聞いたばかりである。
そのことも言わなかった。
「お前に浅井は託した」
久政は、机から手を膝へ戻した。
「頼んだぞ」
長政は、また頭を下げた。先ほどと同じところまで下げる。
「・・・浅井を、大きゅうしてみせまする」
久政は答えなかった。長政も続けない。
川の音がしている。その向こうで鳥が一度鳴いた。廊下を誰かが歩き、部屋の前へ来る前に別の方へ曲がった。
長政は、しばらく座っていた。久政も座っている。
言うことがなくなった。
戻ってほしいと頼んだ。久政は戻らないと言った。理由も聞いた。理由へ返す言葉が見つからない。
自分が当主だから戻ってほしいと言えば、久政の言ったことと同じになる。父だから戻ってほしいと言うには、先ほどの言葉で足りていた。
もう一度言っても、答えは変わらない。
長政は膝へ手を置き、立った。もう一度頭を下げた。久政は、そこでも何も言わなかった。
部屋を出た。襖が閉まる。
廊下を二度曲がり、式台へ戻った。番の者が、入ったときと同じ向きに草履を揃えていた。
長政は草履を履き、門を出た。
供が待っている。誰も、どうであったかとは訊かなかった。
馬へ乗り、谷の入口へ向けた。供が後ろにつく。
◇
一乗谷の道を進んだ。
川沿いを離れ、家のあいだを曲がる。来たときに通った角を、反対から二度曲がった。
長政は、先ほど自分が口にした言葉を思い返した。
浅井を大きくしたいと思ったことは、一度もない。父から預かった浅井を守る。そう言えばよかった。
それなのに、大きくすると言った。
市の顔が浮かんだ。
若狭の次はどこじゃ、と訊いたときの顔である。まだ何も決まっていないと答えると、では決めよ、と言った。戦が決まれば、いつも得意そうに笑う。
長政は、手綱を握り直した。
途中で、一度だけ振り返った。
屋敷は、木に隠れて見えなかった。
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