【第三章 長政と久政】第四十一話 また子ができた
一五六三年 秋 近江 小谷
秋になった。刈り入れの数が上がってくる時期である。
長政は、部屋で報告を聞いていた。襖は開けてある。秋の風が入り、机の端の紙を動かした。長政は硯箱を載せ、飛ばないようにした。
家臣が一人、少し離れたところに座っている。
初めは、秋の割り当ての話であった。どの郷から、どれだけ米が入るか。夏に田を直した村は、今年の分を少し減らす。若狭から入る米は、近江のものと分けて帳面につける。
一つずつ読み上げる。長政が聞く。必要なところだけ訊いた。
話が済むと、次の書付へ移った。今度は人の話である。久政について小谷を出た者の名が並んでいる。誰が戻ったか。いつ戻ったか。いま、どこにいるか。
長政は、一枚ずつめくった。
「父上は、まだ戻らぬか」
「はい」
「それから、赤尾殿が」
「父と一緒におるのだろうな」
「おそらくは」
探しに出した者は、馬の跡を途中で見失っていた。街道を外れたところまでは分かっている。その先で、道がいくつかに分かれていた。
長政は、それ以上訊かなかった。
「そうか」
書付をめくり、次の項へ移った。
廊下で音がした。
速い。踵が板を叩いている。遠くで一度鳴り、すぐに近づいた。途中で誰かが声をかけたが、足音は止まらない。
家臣が廊下を見た。長政も顔を上げる。
襖が開いた。
「長政。また子ができた」
市が、そこに立っていた。
顔を上げたときには、もうそこにいた。片手を襖へかけ、もう片方の手には何も持っていない。稽古へ出る支度をしていた。袴の裾をまとめ、袖をたすきで上げてある。
家臣は、市の方へ膝を回して頭を下げた。下げてから、退出してよいのか分からず、そのままの形で止まった。
「・・・」
長政は、書付を持ったまま市を見た。
前に市が子ができたと言ったとき、長政は筆を持っていた。紙へ墨が落ちた。
今日は筆を持っていない。書付の端を両手で持っている。右手の指が少し曲がり、紙の端に折り目がついた。
市は、返事を待っていなかった。
「稽古に行ってくる」
身を返し、廊下へ出ようとする。
「・・・おやめくだされ」
長政は立った。立つのが早かった。持っていた書付を置くより先に腰が上がり、書付が机の端へ触れて、半分だけ落ちた。
「誰か」
廊下へ声をかけた。
「薙刀を倉にしまえ。市に絶対に渡すな」
返事があった。近くに一人ではなかったらしい。二つの声が重なった。
「はっ」
誰かが庭の方へ走った。もう一人は反対へ向かう。蔵役を呼びに行ったのであろう。
長政は続けた。
「木のものもしまえ」
廊下の先から返事がした。
「はっ」
前の懐妊のとき、市は倉から薙刀を出させた。誰が渡したのかは、最後まで分からなかった。今度は、刃のない稽古用のものまで一緒に入れるらしい。
「なぜじゃ」
市が振り返った。たすきを掛けたまま、長政を見ている。
長政は答えなかった。
子ができたばかりだからである。市が自分で言ったところであった。それを言い返すことはしなかった。
市は、しばらくそこに立っていた。長政も立っている。家臣は、頭を下げるべきか、顔を上げるべきか分からず、途中のところで止まっていた。
庭の方から、長いものを運ぶ音がした。廊下の角へ当たり、持ち直す声がする。
もう薙刀を運び始めている。
市は、その音を聞いた。廊下へ出た。右へ折れた。足音が遠ざかっていく。
倉ではない。庭の方であった。
長政は、その後ろ姿が見えなくなるまで立っていた。
家臣が顔を上げ、長政を見た。目が合う前に、また下げた。
長政は座り直した。机から半分落ちていた書付を拾う。持っていたところに折り目がついている。指で伸ばした。伸びなかった。
机へ置いた。置いてから、置いた場所が前と違うことに気づいた。戻った者の書付と、秋の割り当ての書付が重なっている。
一度すべて持ち上げる。分ける。端を揃え直した。
「続けよ」
「・・・はっ」
家臣は書付を開き、続きを読み上げた。誰が戻ったか。誰が戻っていないか。名が一つずつ並んでいく。
長政は、それを聞いていた。
庭の方で、市の声がした。何かを渡せと言っている。別の者の声が返る。今度は、何人かが同時に何かを言った。何を言っているのかは、ここまで届かなかった。
家臣は、最後の書付を読み終えた。
長政は、久政と赤尾の名が残った紙を見た。
「供を五人、選んでおけ」
家臣が顔を上げた。
「越前へ行く」
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




