【第三章 長政と久政】第四十話 久政の采配 指図は正しかった
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久政の側が押されはじめたのは、昼を過ぎてからであった。
初めは、半歩であった。前にいた者が押され、後ろの者が背を支える。しばらくして、また半歩下がる。繰り返すうちに、朝に立っていた場所から、一町ほど北へ動いていた。
赤尾清綱は、久政の脇にいた。
久政の指図は、それまでと変わらなかった。
「田の側を厚くせよ」
「谷へ置いた者は動かすな」
「前を替えよ。二度出た者は、次へ回すな」
指図を、一つずつ出す。伝令が走る。命は通っていた。言えば、まだそこへ行く者はいる。
命じた場所を押さえるところまでは、いつもと同じであった。
そのあとが続かない。
山際の十人を下げれば、同じ細道から長政の兵が来る。谷の十五人も動かせない。そこを空ければ、今度こそ山の上を取られる。
街道で押している者だけを、入れ替えることになる。
「次の組を出せ」
久政が言った。
「すでに二度、出ておりまする」
「その次は」
「・・・おりませぬ」
久政は、少し黙った。
「二度目の者を出せ」
「はっ」
下がってきた者が、また立たされた。水を飲んだばかりである。具足の紐を締め直し、前へ戻る。
そのうち、槍を突くのではなく、倒れないように握るだけになる。そこへ、向こうは休ませた者を入れてくる。違う顔が来る。押す力が戻る。こちらは、同じ顔で受ける。
また半歩下がった。
越前の兵も、少しずつ抜けていった。前から下がり、水を飲み、そのまま槍を持って列の後ろへ歩いていく。
戻れと声をかける者はいなかった。越前の兵をまとめていた者は、朝倉とともに帰っている。一人が戻らない。その隣も戻らなくなる。二人が荷を探し、北へ歩き始めた。
誰も止めなかった。止める役の者が、もういない。
小谷から一緒に出てきた者は、前へ戻った。十を少し超える数である。
額を切った者は布を巻き、息が収まる前に槍を取った。左の肩を押さえた者は、右手だけで槍を持ち直した。
下がっては戻る。戻るたび、どこかを切っていた。それでも前へ行った。
その数が、減っていった。
「前は、あとどれほどもつ」
赤尾は伝令を見た。伝令は、すぐには答えなかった。向こうが、あとどれだけ新しい兵を入れてくるかで変わる。
「分かりませぬ」
久政は責めなかった。前を見た。長政方の旗が、また少し近づいていた。
夕方近くになった。日の光が山へ遮られ、山の側から先に暗くなり始めた。
「大殿。このままでは」
赤尾は、続きまで言わなかった。
久政は道の方を見たまま答えた。
「・・・田の側から下げよ。順に引かせる形にせよ」
「はっ」
指図は正しかった。
田の側を先に下げ、その後ろを順に抜く。山際が下がる頃には、先に下げた者を後ろで並べ直す。全員が同時に背を向ければ追われる。この道で退くなら、その形しかない。
命は伝わった。田の側が下がった。
下がったが、順に引く形にならなかった。
最初の組が後ろへ動く。その後ろにいた者が、交代だと思って道を空ける。空いた道を、下がってきた者がそのまま進んだ。
「止まれ」
赤尾が声を上げた。
声は届いている。それでも、足が止まらなかった。
越前の兵は北へ抜けた。小谷から来た者は止まったが、並び直しても、田の側を作れるほどいない。山際が、そのぶんまで受けることになった。受けきれなかった。
赤尾は、それを見ていた。
指図が悪かったのではない。
久政の言うことは、初めから終わりまで正しい。道も水場も知っている。地元の者しか使わぬ細道まで知り、相手の手も、打たれる前に読んでいた。
人がいないだけであった。
命じた場所へ行く者はいる。そこへ残る者がいない。下げれば、次に戻る者がいない。
久政について小谷を出た者と、朝倉から借りただけの者の差が、こういうときに数で出る。
久政は、道脇の高いところを見ていた。長政の本陣である。幕と旗は、朝から動いていない。騎馬の一団も、薙刀を立てて走る者もいない。伝令だけが何度も前へ走り、戻っていた。
長政は、あそこにいる。一度も出てこない。
前の兵が、また下がった。向こうの旗が動く。こちらの旗を持つ者は、立ったまま後ろを見ていた。下げるべきか、残すべきかを訊く相手がいない。
「・・・退け」
赤尾は、一度だけ久政を見た。
「・・・はっ」
今度は、形を作れとは言わなかった。
退け。それだけを伝えた。
兵は、一人ずつ背を向けた。槍を持ったまま走る者がいる。捨てる者もいる。まとまらないまま、道を北へ抜けていった。
久政は旗を下ろさせた。幕は柱から外し、布だけを持たせる。床几は置いたまま、馬に乗った。
赤尾も続いた。北へ向かう。
振り返ると、長政の兵は道の曲がりまで来て、止まっていた。
この道で退く側を追えば、必ず取れる。逃げる列は伸びている。山際の細道から回れば、前を塞ぐこともできる。
それでも、追ってこなかった。
半里ほど北へ抜けたところで、古参の一人が馬を寄せた。頬から血が出ている。
「大殿。追うてまいりませぬ」
久政は答えなかった。前を向いたまま、振り返らなかった。
赤尾も、もう後ろを見なかった。
一五六三年 夏 近江 小谷
北国街道から兵を引いたあと、長政は追わなかった。久政も小谷へ戻らないまま、夏になった。
踏んだ田を確かめ、米や銭で返した。畦には人を出した。稲が伸びれば、兵の跡は見えなくなる。誰にいくら返したかだけが、帳面に残った。
久政についていった者も、戻ってきた。
初めは、北の郷を預かっていた男である。城下の知り合いの家に二日いて、三日目の朝に山を上がった。
門で名を訊かれた。答えると、番の者は帳面へ書き、門を開けた。どこへ行くのかとも、誰の許しを得たのかとも訊かなかった。
男は前に使っていた部屋へ行った。書付が積んである。途中まで書いた名主の名が残り、その横に、別の者が足した紙が重なっていた。
そこへ座り、その日のうちに前と同じ仕事を始めた。
次に、蔵にいた者が戻った。蔵役は、その者を見ると書付を差し出した。
「若狭から入れたものが、合いませぬ」
ほかのことは言わなかった。
戻った者は蔵へ入り、小浜から来た俵を一つずつ指した。印をつけて数え直すと、数が合った。
取次をしていた者は、最後に近かった。積まれた書付を見ると、上から三つを抜き、順を変えた。それから、前と同じ場所へ座った。
席を空けて待っていたわけではない。代わりが決まらず、空いたままになっていた。戻った者は、そこへ座った。
戻ってきた者たちに、誰も何も言わなかった。
なぜ久政についていったのか。なぜ戻ったのか。木之本で誰へ槍を向けたのか。
誰も訊かなかった。
長政が咎めなかったからである。
咎めるなと命じたわけではない。戻った者を許すとも言わなかった。名を呼び、前と同じ仕事をさせた。それだけであった。
取次の者は取次へ。蔵の者は蔵へ。北の郷を預かる者は、また村を回った。
途切れていた帳面の続きが、そのまま書かれていった。




