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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第三章 長政と久政】

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【第三章 長政と久政】第四十話 久政の采配 指図は正しかった

 ◇


 久政の側が押されはじめたのは、昼を過ぎてからであった。


 初めは、半歩であった。前にいた者が押され、後ろの者が背を支える。しばらくして、また半歩下がる。繰り返すうちに、朝に立っていた場所から、一町ほど北へ動いていた。


 赤尾清綱は、久政の脇にいた。


 久政の指図は、それまでと変わらなかった。


「田の側を厚くせよ」


「谷へ置いた者は動かすな」


「前を替えよ。二度出た者は、次へ回すな」


 指図を、一つずつ出す。伝令が走る。命は通っていた。言えば、まだそこへ行く者はいる。


 命じた場所を押さえるところまでは、いつもと同じであった。


 そのあとが続かない。


 山際の十人を下げれば、同じ細道から長政の兵が来る。谷の十五人も動かせない。そこを空ければ、今度こそ山の上を取られる。


 街道で押している者だけを、入れ替えることになる。


「次の組を出せ」


 久政が言った。


「すでに二度、出ておりまする」


「その次は」


「・・・おりませぬ」


 久政は、少し黙った。


「二度目の者を出せ」


「はっ」


 下がってきた者が、また立たされた。水を飲んだばかりである。具足の紐を締め直し、前へ戻る。


 そのうち、槍を突くのではなく、倒れないように握るだけになる。そこへ、向こうは休ませた者を入れてくる。違う顔が来る。押す力が戻る。こちらは、同じ顔で受ける。


 また半歩下がった。


 越前の兵も、少しずつ抜けていった。前から下がり、水を飲み、そのまま槍を持って列の後ろへ歩いていく。


 戻れと声をかける者はいなかった。越前の兵をまとめていた者は、朝倉とともに帰っている。一人が戻らない。その隣も戻らなくなる。二人が荷を探し、北へ歩き始めた。


 誰も止めなかった。止める役の者が、もういない。


 小谷から一緒に出てきた者は、前へ戻った。十を少し超える数である。


 額を切った者は布を巻き、息が収まる前に槍を取った。左の肩を押さえた者は、右手だけで槍を持ち直した。


 下がっては戻る。戻るたび、どこかを切っていた。それでも前へ行った。


 その数が、減っていった。


「前は、あとどれほどもつ」


 赤尾は伝令を見た。伝令は、すぐには答えなかった。向こうが、あとどれだけ新しい兵を入れてくるかで変わる。


「分かりませぬ」


 久政は責めなかった。前を見た。長政方の旗が、また少し近づいていた。


 夕方近くになった。日の光が山へ遮られ、山の側から先に暗くなり始めた。


「大殿。このままでは」


 赤尾は、続きまで言わなかった。


 久政は道の方を見たまま答えた。


「・・・田の側から下げよ。順に引かせる形にせよ」


「はっ」


 指図は正しかった。


 田の側を先に下げ、その後ろを順に抜く。山際が下がる頃には、先に下げた者を後ろで並べ直す。全員が同時に背を向ければ追われる。この道で退くなら、その形しかない。


 命は伝わった。田の側が下がった。


 下がったが、順に引く形にならなかった。


 最初の組が後ろへ動く。その後ろにいた者が、交代だと思って道を空ける。空いた道を、下がってきた者がそのまま進んだ。


「止まれ」


 赤尾が声を上げた。


 声は届いている。それでも、足が止まらなかった。


 越前の兵は北へ抜けた。小谷から来た者は止まったが、並び直しても、田の側を作れるほどいない。山際が、そのぶんまで受けることになった。受けきれなかった。


 赤尾は、それを見ていた。


 指図が悪かったのではない。


 久政の言うことは、初めから終わりまで正しい。道も水場も知っている。地元の者しか使わぬ細道まで知り、相手の手も、打たれる前に読んでいた。


 人がいないだけであった。


 命じた場所へ行く者はいる。そこへ残る者がいない。下げれば、次に戻る者がいない。


 久政について小谷を出た者と、朝倉から借りただけの者の差が、こういうときに数で出る。


 久政は、道脇の高いところを見ていた。長政の本陣である。幕と旗は、朝から動いていない。騎馬の一団も、薙刀を立てて走る者もいない。伝令だけが何度も前へ走り、戻っていた。


 長政は、あそこにいる。一度も出てこない。


 前の兵が、また下がった。向こうの旗が動く。こちらの旗を持つ者は、立ったまま後ろを見ていた。下げるべきか、残すべきかを訊く相手がいない。


「・・・退け」


 赤尾は、一度だけ久政を見た。


「・・・はっ」


 今度は、形を作れとは言わなかった。


 退け。それだけを伝えた。


 兵は、一人ずつ背を向けた。槍を持ったまま走る者がいる。捨てる者もいる。まとまらないまま、道を北へ抜けていった。


 久政は旗を下ろさせた。幕は柱から外し、布だけを持たせる。床几は置いたまま、馬に乗った。


 赤尾も続いた。北へ向かう。


 振り返ると、長政の兵は道の曲がりまで来て、止まっていた。


 この道で退く側を追えば、必ず取れる。逃げる列は伸びている。山際の細道から回れば、前を塞ぐこともできる。


 それでも、追ってこなかった。


 半里ほど北へ抜けたところで、古参の一人が馬を寄せた。頬から血が出ている。


「大殿。追うてまいりませぬ」


 久政は答えなかった。前を向いたまま、振り返らなかった。


 赤尾も、もう後ろを見なかった。



一五六三年 夏  近江 小谷



 北国街道から兵を引いたあと、長政は追わなかった。久政も小谷へ戻らないまま、夏になった。


 踏んだ田を確かめ、米や銭で返した。畦には人を出した。稲が伸びれば、兵の跡は見えなくなる。誰にいくら返したかだけが、帳面に残った。


 久政についていった者も、戻ってきた。


 初めは、北の郷を預かっていた男である。城下の知り合いの家に二日いて、三日目の朝に山を上がった。


 門で名を訊かれた。答えると、番の者は帳面へ書き、門を開けた。どこへ行くのかとも、誰の許しを得たのかとも訊かなかった。


 男は前に使っていた部屋へ行った。書付が積んである。途中まで書いた名主の名が残り、その横に、別の者が足した紙が重なっていた。


 そこへ座り、その日のうちに前と同じ仕事を始めた。


 次に、蔵にいた者が戻った。蔵役は、その者を見ると書付を差し出した。


「若狭から入れたものが、合いませぬ」


 ほかのことは言わなかった。


 戻った者は蔵へ入り、小浜から来た俵を一つずつ指した。印をつけて数え直すと、数が合った。


 取次をしていた者は、最後に近かった。積まれた書付を見ると、上から三つを抜き、順を変えた。それから、前と同じ場所へ座った。


 席を空けて待っていたわけではない。代わりが決まらず、空いたままになっていた。戻った者は、そこへ座った。


 戻ってきた者たちに、誰も何も言わなかった。


 なぜ久政についていったのか。なぜ戻ったのか。木之本で誰へ槍を向けたのか。


 誰も訊かなかった。


 長政が咎めなかったからである。


 咎めるなと命じたわけではない。戻った者を許すとも言わなかった。名を呼び、前と同じ仕事をさせた。それだけであった。


 取次の者は取次へ。蔵の者は蔵へ。北の郷を預かる者は、また村を回った。


 途切れていた帳面の続きが、そのまま書かれていった。

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