【第三章 長政と久政】第三十八話 父との決着 ぬしが出よ
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朝倉が引いたという報せは、朝のうちに来た。
前の隊が、昨日まで押し合っていた場所へ進んだ。浅井の兵は、槍を揃えて待った。朝倉が出てくると思っていた。
来なかった。
向こうに人はいない。旗も見えない。二人を先へ出した。陣のあったところまで進んだが、荷も幕もなかった。柱を抜いた穴と、火を焚いた跡だけが残っている。
朝倉は引いた。
前の隊は、そこで止まった。追うべきか、残った陣へ向かうべきか、決める者が前にはいなかった。
その代わり、道の途中に陣が一つ残っていた。東側の、少し高くなったところである。見える人は、五十ほどしかいない。
朝倉の陣ではない。残っている者たちの具足も、立てられた槍も揃っていなかった。
旗が立っている。
浅井の旗であった。
一本ではない。二本ある。風が来ると、並んで開いた。
三田村国定は、本陣で長政の脇にいた。あの陣にいる大将が誰なのかを、市に訊かれなくても知っている。
先の出陣で、朝倉の騎馬の中にいた姿を見た。馬の乗り方で分かった。昨夜まで朝倉の列の中にあり、朝になっても残っている陣である。
長政は、報せを聞いてから動かなかった。床几に座っている。
台には絵図が広げてあり、石が置いてあった。朝倉の陣に一つ。こちらに一つ。谷の口に一つ。朝から変わっていない。
朝倉が引いたのなら、向こうの石は下げるものである。余呉の先へ動かすか、絵図の外へ除ければよい。
長政は、下げなかった。
もうそこにいない軍勢を示す石だけが、昨日と同じ場所に残っていた。久政の陣を示す石は、初めから置かれていない。
伝令が待っている。長政が何か言うのを待っていた。
「殿。前へ出まするか」
長政は顔を上げなかった。
「追いまするか」
答えがない。
「ここで待ちまするか」
それにも答えなかった。
伝令は頭を下げた。前へ戻れば、また誰かが訊きに来ることになる。
それでも、戻るしかなかった。伝令は幕を出た。外で馬へ乗り、来た道を前へ走っていった。
三田村は、長政の横顔を見た。顔色は八幡宮にいたときから変わらない。朝倉が引いたと聞いても、変わらなかった。
昼近くになった。
外で馬の音がした。一頭だけ、速く近づいてくる。
市が来た。
前にいたのであろう。朝倉の消えた陣を、自分でも見てきたらしい。馬を幕の前で止め、手綱を近くの者へ投げるように渡して下りた。薙刀は自分で持っている。
「支度をせい」
入ってすぐに言った。幕の内にいる全員へ、その辺りへ投げた声である。
朝倉が引き、代わりに父の陣が残った。ならば、そこへ行く。市の中では、それだけで決まっているようであった。
誰も動かなかった。
支度を始める者も、何の支度かを訊く者もいない。市は幕の中を一度見回したが、もう一度は命じなかった。
市は返事を待たず、絵図の前へ来た。薙刀の石突きを地面へつき、片手を空ける。長政が座っているすぐ前であった。
朝倉の陣を示す石は、まだ置いてある。それを見てから、街道の途中へ指を置いた。旗の立っている場所である。絵図には、久政の陣を示すものがない。
市は、指でそこを押さえたまま長政を見た。
「父上・・・」
長政が言った。絵図を見ている。市の方は見なかった。その先は続かなかった。
三田村は待った。市も待っているように見えた。長政の手は膝の上にある。右手の指が左手の甲へ触れたが、それきり動かなかった。
市は、しばらく長政を見ていた。それから、絵図を押さえていた指を離した。
「此度はわしではない」
声は大きくなかった。それでも、幕の中にいる者には届いた。
「長政、ぬしが出よ」
そこで一度、言葉を切った。
「おぬしが決着をつけてこい」
討ってこいとは言わなかった。連れて戻れとも言わない。どう決着をつけるのかは、長政へ渡した。
長政が顔を上げた。市を見る。市は、立ったまま長政を見下ろしていた。
市は、いつものように笑ってはいなかった。怒っている顔でもない。ただ、長政が答えるのを待っていた。
三田村は、二人を見ていた。
長政は市を見上げたまま動かない。返事が出ない。市も急かさずに待っている。幕の中で、誰も動かなかった。
外から、馬の鼻を鳴らす音がした。前へ戻った伝令とは別の馬である。誰かが幕の前を走り過ぎた。
「・・・わかりました」
長政は言ってから立った。床几が後ろへ少し動いた。長政は、それを直さなかった。
「では市は、小谷に戻っていてくだされ」
「なぜじゃ」
返事は早かった。市は、長政から目を離さない。
「よい知らせを持って帰りまする」
理由になっていない。よい知らせを持って帰るのなら、ここで待っていても同じである。陣にいれば、小谷へ運ぶより先に聞ける。
市は、それを訊き返さなかった。長政も、それ以上は言わなかった。市がいると何ができないのか。なぜ小谷でなければならないのか。誰にも説明しなかった。
「三田村。市を頼む」
「はっ」
三田村は答えてから、自分がすぐに返事をしたことへ気づいた。
市を頼む、と言われたのは初めてではない。若狭でも言われている。あれは、そばを離れるなという命であった。
今度は違う。連れて帰れという意味である。言われていないところまで、三田村には分かった。
市を父の前へ出さない。市の兵も残さない。その二つも、同じ命の中に入っていた。
市は、少し黙っていた。長政を見る。それから絵図へ目を移した。旗の立つ場所をもう一度見る。長政がまだ動かしていない朝倉の石も見た。
「そうか」
市は言った。
「わしがおったら、わしに頼ってしまうというわけじゃな」
口の端が、少し上がった。一人で分かった顔をしている。
三田村には、それが長政の言えなかった理由と同じなのか分からなかった。長政は、正すこともしなかった。
「あいわかった。小谷でおぬしを待つ」
長政は答えなかった。市は、それでよいようであった。
「長政、後は頼んだぞ」
そう言って、幕を出た。薙刀の柄が入口の柱へ当たりかける。市は手首を返し、当てずに通った。
外で馬を引かせた。鐙へ足をかけ、一息で乗る。乗ってから、一度だけ北を見た。道の先に、浅井の旗が立っている。
市は何も言わず、馬を南へ向けた。
三田村は、野村と大野木を呼んだ。小谷へ戻ると告げた。野村は、市を見てから替えの馬と薙刀を見た。理由は訊かなかった。市のいないところへ置いても、使い道がない。
替えの馬を列へ入れ、薙刀を積んだ駄も向きを変えた。糧の駄は残す。長政の陣に要るものである。
市が馬を出す。三田村が左につき、大野木が右へ入る。いつもの形である。
ただ、進む向きだけが逆であった。
三田村は、しばらく進んでから振り返った。
幕はまだ張ってある。長政の旗も立っている。動く気配はなかった。
その向こうに、東側の高い場所が見えた。別の陣がある。
旗が、二つ並んで立っていた。




