【第三章 長政と久政】第三十七話 朝倉が去った夜 残された陣
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久政の陣は、朝倉の列の中ほどにあった。
道の東側に、少し高くなった場所がある。前へ出れば、南の木之本が見える。振り返れば、余呉の方も見えた。
置く場所を決めたのは、久政である。
朝倉からは、もっと後ろでもよいと言われていた。後ろでは道の様子が見えない。前へ寄せれば、木之本から動く浅井の兵が見える。東の山裾へ入る谷にも近い。
久政がここにすると言い、それで決まった。
浅井の地である。どこへ陣を置けば何が見えるかを、朝倉の者より久政の方が知っていた。
赤尾清綱は、その陣にいた。
小谷を出てから、ずっと久政の側にいる。明け方に門を出たときも、越前へ入るときも、一乗谷で待つあいだも離れなかった。
一乗谷の館へ呼ばれたのは久政だけである。赤尾は式台で待った。中の話は聞こえなかった。
久政が出てきたときにも訊かなかった。
頭を下げたのか。何を頼み、朝倉が何と答えたのか。久政は言わなかった。赤尾も訊かなかった。
兵を出すことになったと、あとで聞いた。
久政の下にいるのは、百と少しであった。小谷からついてきた者が十を少し超える。ほかは、朝倉から回された兵である。
その者たちは久政の名を知っている。久政は、その者たちの名を知らなかった。赤尾も覚えていなかった。
朝の指図は、細かかった。
「谷の口へ二十置け」
「水場は二つとも押さえよ。片方を空ければ、浅井に使われる」
「道へ出しすぎるな。戻せなくなる」
東の山裾には谷が二つある。片方は馬でも途中まで登れる。もう片方は、入ってもすぐに道が切れる。水は二か所でしか汲めない。雨が降れば、南の低いところへ水が集まる。そこへ糧を置いてはならない。
久政は、絵図を見なかった。見ずとも知っていた。
赤尾は、それを長く見てきた。長政が当主になる前からである。
久政は、人へ命じることが少なかった。それでも戦に出れば、何をすればよいかは知っている。誰を前へ置き、誰を残すかを間違えない。
昼過ぎに、前が押され始めた。
初めの報せでは、動いていないと言った。次は半町ほど下がった。その次では、前を入れ替えたが戻せないと言った。
久政は、一つずつ聞いた。
「後ろは詰まっておるか」
「はっ」
「浅井は、横へ出たか」
「出ておりませぬ」
「ならば前だけを見よ。谷から人を動かすな」
答えは早かった。
前が押されても、谷を空けなかった。空ければ、そこを使われる。使われなければ、置いた兵は何もせずに終わる。それでも動かさない。
何もさせずに残すことも、戦のうちであった。
夕方までに、朝倉の前の隊は下がった。崩れてはいない。旗を立てたまま、少しずつ後ろへ退いただけである。
それでも、朝に当たった場所より北にいた。
日が落ち、前から来る報せが止まった。
久政の陣にも灯が入り、明日の朝までの糧が運ばれてきた。
夜になって、朝倉の陣が動き始めた。
初めは、遠くで木の触れる音がした。柱を抜いている。次に、荷を括る声と、馬を引く音がした。
蹄の音は、北へ向かっていた。
前へ出る動きではない。引く動きである。
赤尾は陣の端へ出た。余呉の方を見る。朝倉の旗が、いくつか消えている。風が止んだのではない。竿ごと下ろされていた。
古参の一人が確かめに行った。半刻ほどして、息を上げて戻ってきた。
「大殿。朝倉勢が引きまする」
久政は、床几に座っていた。灯が横から顔に当たっている。
答えなかった。
「後ろの陣から、すでに畳み始めておりまする。糧の駄も北へ出ております」
久政は動かなかった。
「われらも越前へ」
朝倉が引くなら、こちらも引く。それが当たり前である。
久政の兵は朝倉から借りたもので、糧も朝倉から回されている。朝倉が去れば、兵を借りる先も、糧を出す先もなくなる。
前には浅井がいる。後ろから朝倉が消える。残れば、そのあいだに久政だけが置かれる。
久政は答えなかった。古参も、もう一度は言わなかった。
幕の外を、また馬が通った。荷の壺が触れ合い、硬い音がする。人の声は抑えられていた。浅井に気づかれぬよう、静かに引いている。
朝倉から、こちらへは何も来ていない。
引くとも、残れとも、一緒に来いとも言わない。使いの一人も寄越していなかった。
命が遅れているのではない。後ろの陣はもう動いている。久政の陣を飛ばし、その先へ伝えている。
好きにせよ、ということであった。
引けと命じられれば、従って越前へ戻れる。残れと命じられれば、ここで浅井を待てる。どちらも言われないので、決めるのは久政であった。
「大殿。いかがなされます」
赤尾が訊いた。
久政は、道の南を見ていた。夜で何も見えない。木之本には浅井の火があるはずだが、山と道の曲がりに隠れている。
見えないところを見ていた。
赤尾は待った。古参も、幕の外にいる者たちも待った。
しばらくして、久政が言った。
「・・・わしは残る」
声は低かった。聞き返す必要はない。
赤尾は何も言わなかった。古参が顔を上げた。
なぜ残るのか。朝倉が引いたあと、何をするのか。誰を相手に戦うのか。小谷へ戻るつもりなのか。訊けば、答えるかもしれない。
誰も訊かなかった。
残ればどうなるかは分かっている。兵は百と少し。向こうは千を超える。朝倉が去れば、糧も来ない。前にも後ろにも、久政の味方はいなくなる。
勝てる形が、一つもなかった。
久政が、それに気づかぬはずはない。道の使い方も、人の置き方も間違えない。押されていると聞いても、谷の兵を動かさなかった。
間違えない者が、百の兵で千に勝てないことだけ分からぬはずがない。
それでも残ると言った。
赤尾は、それ以上考えなかった。
「承知いたしました」
頭を下げた。古参も下げた。
夜のうちに、朝倉の列が動いた。幕が一つ下り、次の幕が下りる。旗が消えていく。
久政の陣の脇を通る者もいた。こちらを見ても、声をかけなかった。
陣には、朝倉から回された兵がいる。その者たちへ戻れと言う者もいない。戻ってよいとも、残れとも言われなかった。
朝倉の兵は、互いの顔を見た。
一人が槍を持って陣を出た。北へ向かった。誰も止めなかった。そのあとを二人が追った。それも止めなかった。
残る者もいる。久政から命じられた場所にいた。次の命がないので、そこを動かなかった。
夜のあいだに、少しずつ減った。
朝になって、越前の兵の一部が残った。引けとも残れとも言われず、動かないでいるうちに、後ろが行ってしまった者たちである。
残ったのは、五十ほどであった。
朝倉の旗は遠くなっている。余呉の本陣があった場所には、柱を抜いた穴が残り、火を焚いた跡から細い煙が上がっていた。
幕も、床几もない。昨日まで本陣であった形だけが、地面に残っている。
久政は、床几から立った。夜のあいだ、ほとんど同じところに座っていた。
外へ出た。
朝倉が去っていく北は見なかった。
道の南を見た。木之本の方である。朝になり、浅井の旗が一本ずつ見えるようになっていた。
しばらく、それを見た。
「行くぞ」
どこへ行くとは言わなかった。久政は南を向いている。
赤尾は、馬を引かせた。




