【第三章 長政と久政】第三十五話 木之本の押し合い 大殿が見ておられるぞ
一五六三年 春 近江 木之本
木之本の手前で、向かい合った。
道幅は、馬三頭ぶんである。両側に山があり、西には細い田が残っている。どちらも兵を広げられるほどの場所ではなかった。
並べられるのは先だけである。後ろは街道に沿って延びる。先が止まれば後ろも止まる。止まった理由は、人のあいだを通って少しずつ伝わった。後ろへ届く頃には、初めとは違う言葉になっていることもある。
野村定元は、列の後ろにいた。
替えの馬と薙刀は、いつも後ろにつける。前へ出せば、動く兵とぶつかり、道を塞ぐ。呼ばれてから出せばよい。
野村は、すべての縄を朝のうちに確かめた。山道を来るあいだに一つだけ緩んでいたので、締め直し、余った縄を巻きつけた。
糧の駄は、その後ろに続いている。今度は、日をかけて集めた。前のように三日で尽きる数ではない。
朝倉の旗は、街道の先から山の陰まで続いていた。数は浅井より多い。どれほど多いかは、後ろが山に隠れて分からない。ただ、多くても当たれるのは先だけである。それは浅井も同じであった。
朝のうちに、矢が来た。
山なりに上がり、前の方へ落ちる。こちらからも返した。それから槍が当たった。
押した。押されて、また押した。
細い道では、槍を突く間もなく柄と柄が重なる。前の者の背を後ろの者が押す。押された者が踏ん張り、その足が土へ沈む。
やがて、先の者は腕が上がらなくなる。肩をつかんで後ろへ引き、その空いたところへ次を入れる。下がった者へ水を渡す。顔へかける者も、口を濯いで吐く者もいる。柄で打たれた腕は、袖を上げて傷を見る。血が出ていなければ、また前へ戻した。
入れ替えが続くあいだは押せる。続かなくなった方が下がる。
朝から、それを繰り返していた。
どちらも崩れない。先では槍が重なり、後ろでは次に入る者と下がった者が動き続けていた。
野村のところへは、何も来ない。替えの馬を寄越せとも、薙刀を替えよとも言われなかった。
前で市が刃を交えていないことだけは分かる。折れれば、すぐに呼ばれる。呼ばれないので、折れていない。
昼を過ぎた。
山のあいだに熱がこもった。具足の紐を緩める者がいる。水桶は前へ運ぶたびに空になり、谷の口まで汲みに行っては戻った。
その頃、市が馬で下がってきた。
道の真ん中を来る。前へ向かう者も、傷を押さえて戻る者も、先に脇へ寄った。市は空いたところを抜け、長政の前で止まった。
本陣は、道脇の少し高いところへ幕を張っただけである。長政は床几に座り、前から来る報せを聞いていた。どの隊が何度入れ替わったか。水がどれほど残っているか。朝倉が新しい兵を入れているか。聞くたびに、書付へ印をつけている。
市が来ると、筆を置いた。
「大将はどこじゃ」
髪の生え際に汗がついている。馬の首にも汗が浮いていた。声に疲れはない。
「ここにはおりませぬ」
朝倉の本陣は、余呉の方にある。ここから一里以上先である。前へ出した隊と本陣のあいだにも兵が詰まっている。正面から抜けることはできない。山へ入る道もなく、あったとしても馬では越えられない。
「では、わしの出番はないではないか」
市は薙刀を肩へ担ぎ、馬の首を返しかけた。
「さにあらず」
長政が言った。市が止まる。
「市には、兵の士気を上げてくだされ」
野村は、長政が市へ何かを頼むのを初めて聞いた。
これまでは、止めるか、答えるかであった。市が出ると言えば止める。止められなければ兵を渡す。大将がどこかと訊かれれば答える。
してもらいたい、と言ったことはない。
長政は床几から立ち、市を見上げていた。
「これも立派な戦の作法でございまする」
市は、しばらく黙った。前から、押せという声が聞こえる。下がるなという声も重なった。どちらが浅井の声かは、ここからでは分からない。
やがて、肩の薙刀を下ろした。
「ほう。戦は大将を取るだけではないのじゃな」
声は小さかった。誰へ言ったのでもない。長政にも届いていないかもしれない。
「あいわかった。わしに任せておけ」
返事を待たず、馬を出した。
すぐには、何も変わらなかった。前では、まだ押し合っている。人が下がり、代わりが入る。空の桶を持った者が、水を汲みに戻ってくる。
それから、声が来た。
「見よ、大殿が見ておられるぞ」
道の先から、市が戻ってきた。薙刀を頭より高く立てている。刃を使うためではない。遠くからでも見えるようにしていた。
「その程度か。大殿に笑われるぞ」
道脇にいた者が振り返る。水を飲んでいた者が顔を上げた。
「藤蔵、まだ立てるではないか」
呼ばれた男は、朝から三度前へ出ていた。腕を押さえ、道の端に座っている。
名を呼ばれると、立った。
「へえ」
自分の槍を探す。そばの者が渡した。
「次は押し負けるでないぞ」
市は、もう通り過ぎていた。藤蔵は槍を持ち、前へ戻った。
市の声が、後ろへ移った。
「恥ずかしい戦をするでないぞ」
「大殿は、向こうから見ておられるぞ」
市は、細い道を何度も行き来した。前へ行く者と下がる者が同じ道を使う。そのあいだを馬で抜け、押し合いのすぐ後ろまで入る。そこで馬を返し、薙刀を上げた。
「押せ」
それだけ言う。指図する者が、それを聞く。前の列を入れ替える。市は入れ替えが終わる前に、また後ろへ走った。
どの隊を先に入れるかは、市が決めているのではない。誰を下げ、誰を戻すかも見ていない。ただ走って、名を呼び、傷を見つけた。
「その傷では死なぬわ。前へ戻れ」
「水は飲んだか」
「まだにございまする」
「ならば飲め。飲んだら行け」
言われた者が桶へ手を伸ばす。市は、もう次の者を見ている。
野村のところまで来た。
馬の脚が乾いた土を跳ね上げる。土が野村の袴へかかった。市は、替えの馬も薙刀も見ず、列の後ろまで行った。
「そこで何をしておる。戦は前じゃぞ」
荷を運ぶ者たちが、市を見た。
その者たちは戦わぬために後ろへいるのではない。水と糧を運び、前へ出すものを整えるためにいる。誰も、それを市へ言わなかった。
市は馬を返し、また前へ駆けていく。市が来ると道が空き、通り過ぎると、そこへ人が戻った。戻った者は、市の行った方を見た。
戻っていく市の背を、荷を運んでいた者たちが見た。
一人が縄の束を置き、槍を取った。もう一人も続いた。空の桶を持ったまま走りかけ、途中で気づいて道脇へ置いた。止める者はいなかった。
野村は縄を拾って駄へ戻し、桶を次に水を汲む者へ渡した。
前から声が上がった。
「押せ」
「大殿が見ておられるぞ」
市の言葉を、別の者が言っている。一人が言い、隣が返す。声が前の列まで届いた。
押し合っていた場所が、少し動いた。朝倉の旗が一つ下がった。浅井の列が、そのぶん進む。
動いて、また止まる。
そこへ市が来る。声が上がる。また押す。
夕方まで、それを繰り返した。
押す。止まる。市が走る。声が上がる。また押す。
日が西の山へ寄る頃、朝倉の前列が半歩下がった。次の列も下がる。後ろが詰まっているので、大きくは動けない。
少しずつ、北へ戻った。
崩れたのではない。旗は立ったままである。押されて、退いただけであった。
それでも、退いた。
浅井の前列が、朝から当たっていた場所を越えた。
市が、そこへ馬を止めた。薙刀を上げる。
声が、野村のいる後ろまで届いた。
野村は、替えの馬を一頭も出さなかった。薙刀も出していない。
市は、一度も刃を交えていない。首も出ていない。
それでも、押していた。




