【第三章 長政と久政】第三十四話 大殿の試練
一五六三年 春 近江 今浜
今度は、きちんと集めた。
触れを回し、日を決め、郷ごとの人数を割り当てた。糧も先に集め、濡れた米は城で炊いて当日のぶんへ回した。
北国街道に近い郷は多く、遠い郷は少なくした。来られない者がいれば、理由も書かせてある。
八幡宮の野は、朝のうちに埋まった。
参道の両側から、その先の野まで人が続く。村ごとに座り、槍を前へ並べている。風が来るたび、立てた旗が開いた。
名を読み上げる声が続いていた。
「今井郷、三十六」
「三十五にございまする」
「足りぬ一人は」
「病にございまする」
病であれば、それ以上は訊かない。書き付けに印がつき、次の郷が呼ばれた。
大野木秀俊は、参道の脇で荷を整えていた。
市の替えの薙刀が六本。柄が四本。目釘、楔、油。替えの馬は三頭。いつもと同じ数である。
大野木は、首を落とす小刀と砥石、包むための布を自分の駄へ括った。荷を揺らすと小刀の鞘が鳴ったので、縄を締め直した。
布は多めにした。足りなければ、討った首を誰のものか分からないまま置くことになる。帰ってから呼ばれるのは、大野木であった。
野は前の出陣と同じように埋まっている。
違うのは、誰も喋っていないことであった。
前なら、行き先や敵の数を訊く声がある。以前の戦を話す者もいる。今日は、槍を置き直す音と、咳と、野の端で鳴く馬の声しか聞こえない。
朝倉が余呉にいる。大殿は越前にいる。
皆が知っている。だが、二つを一緒には口にしなかった。
長政が、社の方から下りてきた。
手水を使い、幣の前で頭を下げ、神酒を受けた。いつもと同じ作法であった。
顔が違っていた。
顔色が悪い。目の下には薄く影がある。参道を下りる足も、いつもより遅かった。
拝んでいる間も、何を願ったのかは誰にも分からない。長政は幣の前を離れてからも、顔を上げなかった。
長政は野も荷も見ず、足元を見て歩いていた。参道の石を一つ避け、そこで止まる。どこへ行くのか、決めていなかったようであった。
誰も声をかけなかった。
野の外から、馬の音がした。
市が来た。
馬で鳥居を潜る。降りず、手水も使わない。社の前まで行くと、幣を一度見た。
神主は、もう何も言わなかった。
市は、すぐには皆の方を向かなかった。馬の向きを変え、長政のところへ寄せた。
長政の前で止める。馬上から顔を覗き込んだ。
長政が顔を上げないので、市の方から身体を傾けた。まとめた髪が肩から前へ落ちる。
市の顔が、長政のすぐ近くまで来た。
「どうした長政、顔色が悪いぞ」
長政は、そこで顔を上げた。
市を見た。しばらく見ていた。
近い。少し身体を動かせば、市の額へ触れるほどであった。
珍しく、長政の方が顔を逸らした。
「父のことが・・・」
そこで切れた。
父が朝倉にいることか。戦うことになるのが嫌なのか。連れ戻せるか分からないことなのか。続きは言わなかった。
「なんじゃ、そんなことか」
市の声は、いつもと変わらない。
大丈夫とも、心配するなとも言わなかった。どうするつもりなのかも訊かない。
市は身体を起こした。長政の近くにあった顔が離れる。
長政は、まだ市を見ていた。
市はもう長政を見ていない。離れていく顔を、長政が目で追った。
大野木は荷へ置いた手を動かさず、その二人を見ていた。
市は馬を野へ向け、端まで見渡せるところで止まった。
座っていた者が立ち始める。誰も命じていない。前が立ち、それを見た後ろが立つ。槍を取り、旗の下へ並ぶ。
一人が立つたび、具足の金具が鳴った。置いてあった槍を持ち上げる音が、そのあとへ続いた。
野の端まで、順に人が立った。
声は上がらなかった。
「みなの者、これより朝倉との決戦じゃ」
市の声が通った。
長政が敵と呼ぶなと言った朝倉を、市はそのまま相手として名指した。
野の何人かが長政を見た。長政は止めなかった。
「越前の兵が、われらの地へ来ておる。ゆえに、追い返す」
それだけであった。
なぜ来たのかは言わない。内訌という言葉にも触れない。浅井の内が割れているとも、割れていないとも言わなかった。
市が皆を見回した。
「向こうには大殿もおられる」
野がざわついた。
誰かが隣へ顔を向け、その隣も別の者を見る。後ろでは聞き返す声が上がった。
大殿。
その言葉だけが、ところどころから聞こえた。
先の出陣で、先頭近くにいた者は、朝倉の騎馬とともにいる久政を見た。その話は、帰る道で後ろまで伝わっている。
大殿が朝倉にいて、浅井の道を教えていたことを、知らない者はいなかった。
それでも、これまで誰も口にしなかった。
言えば、次にどうするかを決めなければならない。大殿へ槍を向けるのか。その陣へ矢を射るのか。捕らえるのか、朝倉へ渡すのか。
誰かが先に決めるのを、皆が待っていた。
長政は、父を敵と呼ぶなと言った。それでも、何と呼べばよいのかまでは言わなかった。
「しずまれい」
市の声で、ざわめきが止まった。
後ろでは、まだ隣と話す者がいた。前が静まったことに気づき、一人ずつ口を閉じる。野の端まで止まるのに、少し間があった。
市は薙刀を立てた。石突きを鐙に当て、柄をまっすぐ上へ伸ばす。刃が朝日を受けて光った。
「これは大殿の試練じゃ」
大野木は顔を上げた。
「大殿は体を張って、われらを試しておられる」
野のどこかで、誰かが息を吐いた。
大殿は裏切ったのではない。浅井が朝倉を退けられるかを見るため、向こうにいる。
大野木は、そういうことかと思った。
思った自分にも驚かなかった。
市の言うことは、いつもそのまま通る。市があれを大将だと言えば、そこにいる者が大将になる。市が勝ったと言えば、戦は勝ったことになる。市が討ち取った者は、大野木が首を落としても、市が討ち取ったのである。
大殿が試していると言うなら、試しているのであろう。
前の方で一人が頷いた。その隣も頷く。
「試しておられるのか」
誰かが確かめるように言った。
「そうじゃ」
隣の者が答えた。その声が後ろへ移っていく。
試しているのであれば、大殿のいる陣へ向かってもよい。勝って、届けばよい。
槍を向けるのではない。期待へ応えるために、朝倉を退ける。それなら、誰も久政を敵にしなくて済む。
「みなの者、大殿の期待に応えるのじゃ」
市が薙刀を高く上げた。
「よいな!」
「おおー」
声が上がった。前から後ろへ広がり、村ごとに重なる。槍の石突きが地面を打ち、旗が立て直された。
声は野の端まで行き、遅れて向こうから戻ってきた。
先ほどまで、誰も喋っていなかった野である。
いまは、隣の声も聞こえない。
市は、その声を聞いて笑っていた。
長政は社の前に立ち、市を見ている。
先ほど顔を逸らした男が、今度は逸らさなかった。
顔色は、まだ変わっていなかった。
市は社へ向き直った。薙刀は下ろさない。
「行ってまいる」
願ってはいない。勝たせてくれとも言わない。帰ることを、先に知らせただけである。
神主は何も言わなかった。長政も、市を止めなかった。
「長政、行くぞ」
市は馬を出し、鳥居を潜った。
長政は一度だけ社を見た。それから馬へ向かう。
「みなも続け」
馬上から声を出すと、もう一度、声が上がった。
列が動き始めた。前の村から参道へ入り、狭いところを槍を立てて抜けていく。
大野木は駄を引く者へ合図した。首を包む道具、替えの薙刀と馬、糧の駄が列へ入る。
自分の馬へ向かう前に、長政を見た。
長政は、市の後ろへついたところであった。
その顔は、さきほどと同じであった。




