【第三章 長政と久政】第三十二話 朝倉の使者 この戦を何と書くのか
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本陣へ戻る途中、誰も口をきかなかった。
市が先におり、長政が少し後ろを進む。三田村国定と大野木秀俊も、いつもの位置へ戻っていた。
後ろの兵は道を空けた。市が馬を出した理由も、長政が手綱を取った理由も訊かない。朝倉の陣へ戻った男を大殿と気づいていない者もいた。気づいた者も、隣へ教えなかった。
長政は、前を行く市の背を見ていた。市は一度も振り返らない。
馬と具足の音だけが、本陣まで続いた。
本陣の幕は、市たちが前へ出ている間に張り終えられていた。朝には二本しかなかった柱が四方に立ち、入口の縄も結ばれている。板を渡した台には北国街道と余呉、木之本の絵図が広げられ、東の谷と水の出る場所も書き足してあった。
三田村は幕の外に立った。
市は中へ入らなかった。遅れて着いた兵のところへ行き、一人ずつ顔を見ている。前の戦で脚を傷めた男を見つけると、その前で止まった。
「その脚は、もう動くのか」
「はっ。すでに治ってございまする」
「ならばよい」
市はそれだけ言い、次の者のところへ行った。
幕の中では、長政が床几に座り、絵図を見ていた。台の脇には朝倉の数を書き入れる紙が置いてある。まだ空いたところが多い。三田村なら、およその数を答えられた。
長政は一度、入口から市を見た。市は兵の中におり、こちらを見ていない。
長政は、また絵図へ目を落とした。
訊かれなかった。
幕の外では、遅れてきた者が村と人数を告げ、入る場所を訊いている。糧を今日のぶんから減らすのか、明日のぶんから減らすのかという声もした。訊かれた者にも分からず、別の者を呼ぶ声が幕の前を行き来していた。
どちらにしても足りないので、決まらないだけである。外では人と声が動き続けていたが、幕の中からは何も聞こえなかった。
◇
日が西へ傾き始めた頃、朝倉から使者が来た。馬が一騎、供が二人である。供の一人が旗を持ち、三人は街道を下って浅井の陣の前まで進んできた。
風が弱く、旗の紋は開いていない。それでも、朝倉の使いであることは着く前から分かった。
槍を交差させて止めると、先頭の者が馬を降りた。名を名乗り、誰の使いであるかを言い、長政への口上があると告げる。それから黙り、通されるのを待った。
一人が本陣へ走り、すぐに戻ってきた。
「お通しせよとの仰せにござる」
使者は供と旗を外へ残し、一人で幕まで来た。履物を揃えて中へ入り、長政の床几の前に立った。
座ろうとはしなかった。こちらも座れとは言わない。座れば話し合いになる。立ったままなら、口上だけを置いて帰ることができる。
向こうは初めから、返事を求めに来たのではなかった。
使者は長政へ頭を下げた。
「浅井家の内訌を鎮めよとの仰せにござる」
声は、幕の外に立つ三田村まで聞こえた。本陣から離れたところにいる市には届いていない。
三田村は、内訌という言葉を頭の中で言い直した。
家の中でもめている。
朝倉は、浅井と戦うために来たのではない。浅井の家中を鎮めるために来た。向こうは、そう言っている。
北近江へ兵を入れても、浅井を攻めたことにはならない。内訌を鎮めに来た。朝倉は、そういう名をこの戦につけたのである。
では、誰と誰が争っているのか。
三田村は、四町先で見た久政の姿を思い出した。久政は朝倉の騎馬の中に立ち、浅井の道と山裾を教えていた。そこに久政の旗も、浅井の旗もなかった。
久政と戦えば、朝倉が浅井を攻めたことにはならない。浅井の父と子が争い、朝倉が片方を助けたことになる。
「浅井の地を取るつもりはござらぬ」
使者が続けた。
「ただ、家中の乱れを収められよとのことにござる」
鎮まれば帰る。そういう言い分である。だが、何をもって鎮まったとするのかは、朝倉が決められる。
久政を小谷へ戻せとも、長政が当主を退けとも、誰に従えとも言わなかった。何をすれば鎮まるのかを言わなければ、こちらから訊くことになる。訊けば、話し合いになる。
長政は答えなかった。絵図を見たまま、膝に置いた右手の指先だけを一度動かした。
それから、入口の外へ目をやった。市はまだ兵の中にいる。長政の方を見ようとはしなかった。
長政は、また絵図へ目を戻した。
しばらく、誰も言葉を出さなかった。外で馬が鼻を鳴らし、供の持つ旗が風で一度開いた。
長政は、最後まで顔を上げなかった。
使者は返事を求めず、もう一度頭を下げた。二歩下がって背を向け、幕を出ていく。三人は馬へ乗り、来たときと同じ速さで街道を戻っていった。
三田村は、その姿を見送った。旗だけがしばらく残り、それも道の曲がりへ消えた。
幕の中で床几が鳴った。長政が立った。
「引く。陣を払え」
長政の声は大きくなかったが、外まで聞こえた。伝令が走り出し、途中で振り返る。聞き違えたと思ったのであろう。
長政は繰り返さなかった。伝令はその顔を見てから向き直り、声を上げた。
「陣を払え。これより引く」
外の動きが止まった。
糧を分けていた手が止まる。幕の縄を締め直していた者も、縄を持ったまま顔を上げた。いま着いた者は、槍を置く場所さえ決まっていない。
少し離れたところで兵と話していた市も、声のした方を見た。
張り終わったばかりの幕を、その日のうちに払うことになる。何のために呼ばれ、何のためにここまで来たのかを訊く者はいなかった。
三田村も動かなかった。敵の大将を見ることと、市の左を走ることが自分の役である。いまは、どちらもすることがない。
◇
市は、話していた兵をその場に残し、薙刀を持ったまま本陣へ向かった。
幕を下ろす者が入口の縄へ手をかけている。市が来ると、その者は手を止めて脇へ退いた。
市は足を止めず、その前を通って幕の中へ入った。
長政は、絵図の四隅から石を外していた。市が入ってくると、その手が止まった。
「長政。なぜ止めたのじゃ」
三田村は幕を見なかった。見なくても、声は聞こえる。
長政から返事はなかった。
「どうして、大殿があそこにおるのじゃ」
三田村が、市から事情を訊くのを聞いたのは初めてであった。
同じ列で何度も走ってきたが、市は誰が敵なのかも、なぜ戦うのかも、糧がどれほどあるのかも訊かなかった。通る道も、味方の人数も知ろうとしない。見るのは、自分の前にいる敵だけである。
市が訊くのは、いつも一つだけであった。
大将はどこじゃ。
今日は、向こうの大将を訊いていない。代わりに、長政へ戦の事情を訊いていた。
長政は、外した石を持ったまま市を見た。市は急かさず、答えを待っている。
長政の口がわずかに動いたが、言葉は出なかった。
視線を絵図の北へ落とした。そこにあるのは、余呉へ延びる街道の線だけである。
答える言葉を選んでいるのか、答えそのものを持っていないのか、三田村には分からなかった。
外では、別の者たちが幕の縄を解き始めていた。一つ目の結び目が固く、片方が縄を緩め、もう一人が爪を入れている。二人で引くたびに柱と布が鳴り、張ったばかりの幕が揺れた。
三田村は、その音の間に長政の返事を待った。だが、答えはなかった。
しばらくして、市が幕から出てきた。薙刀の持ち方は、入ったときと変わらない。そのまま三田村の前を通り、馬の方へ歩いていく。こちらを見ず、止まりもしなかった。
長政は、石を持ったまま顔を上げていた。声はかけず、薙刀の柄が入口から消えるまで市を見ていた。
大野木が馬を引いてきた。市は手綱を受け取り、鐙へ足をかけた。それきり、何も訊かなかった。
陣を払ううちに、日は暮れた。張るときは来た者から幕を張ればよいが、払うときは後ろから畳み、前を最後まで残さなければならない。掘った溝を埋め、火の跡へ土をかけた。
前から払えば、作業のあいだが無防備になる。来たときより、帰る支度の方に時間がかかった。
◇
その夜は木之本の南で止まり、翌朝、街道を南へ下った。その日のうちに小谷へ戻った。
途中で加わった者は、自分の村へ近づくたびに列を離れた。来たときも名を告げず、帰るときも何も言わない。列は少しずつ短くなり、追ってくる者もいなかった。
当たっていない。
三田村は考えた。負けていない。勝ってもいない。矢を射ていない。刃を交えていない。首もない。
市は列の先にいた。帰る間、一度も次はいつ出るのかと訊かなかった。長政はその後ろを進み、市の背を何度か見た。
市は、一度も振り返らなかった。
それでも、二人の間はいつもより離れていなかった。
書き付ける者は、この戦を何と書くのだろうか。
三田村は、訊かなかった。




