【第三章 長政と久政】第三十一話 木之本の対陣 今日は、市だけを見ていた
一五六三年 春 近江 北国街道
浅井は、城を出た日の夕方、木之本の手前で止まった。
朝倉は、その一里先の余呉にいた。
両軍の間を通る北国街道は、湖の北端から越前へ抜ける。木之本から北へ進むほど田が減り、両側の山が近くなる。道の片側が斜面となり、もう片側へ川が寄るところもあった。
木之本は、小谷から街道を北へ三里ほど行ったところにある。街道沿いに家が並んでいる。
二万を連れてきても、大軍を広げられる場所ではない。当たれるのは先頭だけである。前が止まれば、後ろは理由も分からず待つことになる。
先に着いた者が街道の脇へ幕を張り、後から追いついた者が空いたところへ入った。村ごとの場所は決まっていない。同じ郷の者が二つに分かれているところもあった。
糧の駄も、日が落ちる前に着いた。三日ぶんである。
翌朝に残りを確かめると、街道で加わった者が増え、もう三日ぶんではなくなっていた。浅井には、まだ旗のない場所がある。朝倉の方でも人と馬が動き、幕を張り終えていない。
どちらかが先に来て、待ち構えていたのではない。同じ頃に、同じ街道へ着いただけであった。
三田村国定は、市の左にいた。右には大野木秀俊、長政は少し後ろにつく。兵がまだ揃っていなくても、市の左右と後ろの並びだけは変わらなかった。
三田村の役は、敵の大将がいる場所を見つけることであった。旗の数と大きさを見て、伝令が出入りする場所を探す。
訊かれたら答える。市が訊くのは、大将の場所だけであった。
だが、向こうは一里先である。旗が立っていることは分かっても、どれが大将のものかまでは見分けられない。朝の光はまだ山に遮られ、幕と人馬が重なっていた。
風が来るたびに、垂れていた旗が開く。止めば、また紋ごと垂れた。
三田村は馬上で、次の風を待った。市も馬を降りず、薙刀を立てている。時折、石突きの位置を鐙の上でずらすほかは動かなかった。
「まだか」
「まだ遠うございまする」
「そうか」
市は、それきり訊かなかった。
◇
昼を過ぎ、朝倉の陣から七騎か八騎が出てきた。
一行は街道を下り、曲がり角や谷の口で馬を止めた。槍も旗も立てていない。一人が谷の奥や斜面を指し、その横の男が指された先を見ている。
地形を調べていた。
三田村も、朝のうちに同じ場所を見ている。谷は二つ。一つは馬で途中まで入れ、もう一つは入ってすぐに道が切れる。水を取れる場所も二か所しかなかった。
長政は、谷の向こうへ出られるか、騎馬を何騎並べられるか、水は何人ぶんあるかを訊いた。
一行は、谷の口で止まるたびにこちらへ近づいてきた。
二人の身なりが見えた。指された先を見る男は具足も馬もよく、馬具には飾りがある。地形を指している男は、旅装束の上へ胴だけをつけていた。衣も馬も、朝倉の者とは揃っていない。
道を知る者が、知らない者へ教えていた。
旅装束の男が馬を止めた。
三田村は、その姿に見覚えがあった。
久政であった。
三田村は目を細め、もう一度見た。
距離は四町ほどある。顔かたちは分からない。旅装束で、いつもの衣でもない。
それでも分かった。
馬の乗り方が同じである。手綱を左手にまとめ、右手を空けている。馬が止まっても、身体を後ろへ引かない。
小谷の坂を馬で下りる姿を、三田村は何度も見ていた。
同じであった。
列の中で、声が上がりかけた。
「あれは・・・」
その先は出なかった。
隣の者も同じ方を見た。その隣が、さらに隣の袖を引く。声にならないものが、前から後ろへ伝わっていった。見えない者は、馬上で腰を浮かせた。
後ろへ知らせようと口を開いた者も、その名は言わなかった。
大殿という言葉は、どこからも出なかった。
三田村は、市を見た。市も久政を見ていた。顔は動かず、薙刀を持つ手もそのままである。
少し離れた長政は、市を見ていた。久政の方は見ていなかった。
市が馬の腹を蹴った。
馬が前へ飛び出した。
一歩で列を抜けた。
二歩目には街道へ向いた。
薙刀が前へ傾いた。
三田村も馬を出した。
「市」
長政の馬が、三田村の横を抜いた。
市の前へ斜めに入った。
馬の鼻先を塞いだ。
長政が手を伸ばした。
市の手綱を取った。
市の馬が首を上げた。
蹄が街道の土を掻いた。
乾いた土が後ろへ飛んだ。
市の馬が止まった。
市は、前へ出ようとする身体のまま久政を見ていた。薙刀も、わずかに前へ傾いている。長政は手綱を離さず、市も長政を見なかった。
三田村は、二人を見ていた。市が危ういとき、長政が止めるところは何度か見ている。矢が来る前に馬の向きを変えさせたことも、崩れかけた味方の列へ入る市の前へ馬を寄せたこともあった。
そのときの長政は、相手を見ていた。矢の来る方を見て、崩れる列を見て、それから市を止めた。
今日は、市だけを見ていた。
いつもは、市が死ぬかもしれないときであった。今は違う。矢の届く距離ではなく、向こうは七騎か八騎しかいない。こちらは千を超えている。市が出れば後ろもついていき、向こうが逃げても追いつける。
止める理由は、危うさではなかった。
三田村が向こうを見ると、朝倉の騎馬も止まっていた。こちらが動いたことに気づき、馬の向きを変えた者もいる。久政だけは動かず、道を指していた手を下ろしていた。市の馬が飛び出したときにも、逃げようとはしなかった。
隣の男が何か言った。久政がそちらを向いて答えると、先頭の一騎が馬の向きを変えた。残りも続き、久政は身なりのよい男の横についたまま、街道を北へ戻っていった。
来たときと違い、帰りは何も指さなかった。それでも、朝倉の男の横からは離れなかった。
市は、まだ同じ場所に止まっていた。長政も手綱を持ったままである。一行は少しずつ遠ざかり、馬が一騎ずつ小さくなっていった。
やがて久政の姿が朝倉の旗の間へ入り、幕の内へ消えた。最後まで、こちらへ戻ろうとはしなかった。
見えなくなってから、市が長政を見た。長政は手綱を離した。指が一本ずつ開いた。
市の馬が首を振った。市は何も言わずに手綱を持ち直し、馬を元の位置へ戻した。久政を追うとも言わず、なぜ止めたとも訊かなかった。長政も馬を下げた。
誰も二人へ声をかけなかった。途切れていた話し声が、列の中へ少しずつ戻った。
三田村は、向こうの旗を見た。日は高く、朝よりよく見える。大きな旗は幕の中央に立ち、大将のいる場所も見当がついた。
長政は、その日、旗のことを訊かなかった。




