【第三章 長政と久政】第三十話 大殿がおられませぬ
一五六三年 春 近江 小谷
古い棟の襖が、開いていた。
海北綱親が通りかかったのは、朝の早いうちである。いつもなら閉まっている。開くのは、誰かが中にいるときだけであった。
海北は通り過ぎ、三歩進んでから戻った。
中には、誰もいない。
褥は畳まれ、部屋の隅へ寄せてある。文机には硯箱も書き付けもない。衣桁からも衣が消えていた。
残っているのは、油の乾いた灯明皿だけであった。
海北は、しばらく敷居の前に立っていた。声はかけない。かける相手がいないことは、見れば分かった。
厩では、馬が四頭減っていた。城下の門を明け方に十を少し超える者が通った。番の者は久政の顔を見ているが、道をどちらへ折れたかまでは見ていない。
昼までに、いなくなった者の名が分かった。
取次を長くしていた者。蔵の者。北の郷を預かる者。それから、赤尾清綱。
赤尾の部屋には、具足も槍も残っている。衣も二つ掛かっていた。腰に差していた刀だけがなかった。
久政の代から仕える古い者ばかりである。
誰が誘ったのかは分からない。誘った者がいたのかも分からなかった。昨夜、城の中で騒ぎはない。訊く相手は、皆いなくなっている。
抜けた穴は、その日のうちに出た。
取次がいないと、書き付けがどこで止まっているか分からない。あの者は帳面をつけず、頭へ入れていた。頭ごと出ていったので、たどりようがなかった。蔵も同じである。
どの俵を先に出すか。どの村へ待つよう言ったか。残された者は、書き付けの束を初めから開くしかない。
明日すぐに困ることではない。
十日なら何とかなる。
ひと月すれば、困る。
◇
海北は、長政の部屋へ行った。
「大殿が、おられませぬ」
長政の筆が、紙の上で止まった。顔は上げなかった。
海北は分かったことを順に言った。馬が四頭。門を出た時刻。人数。欠けている者の名。赤尾を最後にした。
長政は聞き終わってから筆を置いた。
その筆を、もう取り直さなかった。
「どちらへ向かわれたかは」
「分かりませぬ」
「・・・そうか」
長政は庭を見た。庭には誰もいない。
「追いまするか」
「追わぬ」
それ以上、長政は言わなかった。海北も訊かなかった。
追わぬという言葉が、どこまでを指しているのかは分からない。久政を連れ戻さないということか。行き先も探さないということか。海北は確かめなかった。
◇
その夜、市には女中頭から伝わった。
市は、茶々を膝へ乗せていた。
「大殿が、昨夜のうちに城を出られたそうにございまする」
「そうか」
茶々が市の袖をつかんだ。市はその手を外し、代わりに自分の指を握らせた。
どこへ行ったのかも、なぜ行ったのかも訊かなかった。戻るのかとも訊かなかった。
訊かれなかったので、女中頭は何も答えずに済んだ。
次の日も、その次の日も、古い棟の襖は開いたままであった。通る者は中へ目をやった。誰も入らず、誰も閉めなかった。
海北は、北へ出す使いを一つ増やした。新しい馬の跡と、十を超える人数が泊まった宿を探させる。見つけても追うなと言った。
長政には知らせていない。訊かれれば言うつもりであった。
訊かれなかった。
◇
それから幾日かした昼前、馬が一頭、城下から走ってきた。
山道へ入っても速さを落とさず、城の前まで上がる。
「朝倉勢、北国街道を南下しておりまする」
余呉まで来ている。数は分からない。旗がいくつも続き、その後ろにも兵がいる。
少なくはない。それだけの報せであった。
報せた者は、馬から降りる前にもう一度同じことを言った。馬の息は荒く、胸の前まで汗で濡れていた。
城の中が動いた。廊下を走る者がぶつかりかけ、止まらずに避ける。報せを聞いた者が、まだ知らない者へ同じことを叫んだ。
なぜ朝倉が来たのかを、誰も知らなかった。
越前との間に争いはない。境目でも揉めていない。朝倉から使者が来たこともなく、こちらから兵を出したこともない。若狭は取ったが、朝倉のものではなかった。
野村定元は、蔵で春の割り当てを直していた。持っていた書き付けを俵へ置き、風に飛ばぬよう升を載せた。
まず、市のものを出す。
替えの薙刀が六本。柄が四本。目釘と楔と油を箱へ入れる。替えの馬は三頭。
薙刀は柄を二本ずつ重ね、刃の向きを揃えた。縄が馬の腹へ当たらぬよう、間へ布を挟む。いつもの支度である。
命を待つ必要はなかった。朝倉が来たことと、市が出ることは、野村の中ですでに一つである。
足りないのは、糧であった。
八幡宮へ集めるなら、村ごとに米を出させ、前の晩から炊かせる。今度は、その間がない。
「今ある数は」
残された蔵役は書き付けを見た。久政とともに出た者が扱っていた束を、まだ数え直している途中である。
「三日ぶんほどにございまする」
「三日か」
「人数が、まだ分かりませぬ」
野村は三日ぶんを出させた。あとは進んだ先の村から出す。朝倉が先に通っていなければ、である。
そのことは口にしなかった。
◇
野村が城の前へ出ると、市はもう馬に乗っていた。
具足はつけず、袴にたすき掛けである。馬の腹帯を締めていた者が、まだその横にいた。市は、すでに薙刀を持っている。
「なんじゃ、越前が来たか。よし」
笑っていた。
小浜から帰って以来、兵を出していない。出る相手がいなかった。その相手の方から来た。
「どこまで来ておるのじゃ」
「余呉にございまする」
余呉は、湖の北の外れである。小谷からは、街道を北へ半日ほど行った先になる。
「近いのう。ならば、すぐに行けるな」
市は、見えない余呉の方を見た。
山があるだけである。それでも、市にはもう、その向こうに朝倉の旗が見えているようであった。
城にいた者と、騒ぎを聞いた城下の者が集まり始めた。触れを回す間はない。八幡宮のように村ごとの場所もなく、来た者から空いているところへ入る。
同じ村の者が二つに分かれても、直す者はいなかった。具足をつけた者の隣に、袴のまま槍だけを持った者が立っている。
長政が出てきた。
歩きながら何かを訊き、答えを聞き終える前に馬へ乗った。そのまま市の横へつく。
「遅いぞ」
「申し訳ござりませぬ」
長政はそれだけ答え、城の前を見回した。集まった者の数を、一度で見た。
「三田村は先へ。敵の数と進む速さを見よ」
「大野木は、市の右へ」
「城には海北を残す。北の郷へは別の道から人を出せ。街道は使うな」
返事がいくつも上がった。言われた者が走り、空いた場所へ別の者が入る。
誰も、なぜ朝倉が来たのかを訊かなかった。訊かれても、長政には答えられない。
「野村。糧は」
「三日ぶんにございまする」
長政の馬が止まった。
駄を見る。俵を載せた数は、いつもの出陣より少ない。数えなくても分かった。
「・・・うむ」
足りぬとも、増やせとも言わなかった。いまないものは、増やせない。
「長政、行くぞ」
市は返事を待たず、馬を出した。
長政が続き、後ろへ声をかけた。
「みなの者、続け」
声が上がった。八幡宮のときほど大きくはない。城の前にいる者だけの声で、すぐに終わった。
麓で、列が揃うのを待たなかった。
街道を北へ向かう。足の遅い者を待てば、朝倉が先へ来る。
城下を抜ける頃、後ろから追いつく者が出始めた。触れを受けたのではない。城の騒ぎを聞き、自分で槍や刀を持ってきた者たちである。
具足をつけず、腰へ刀だけを差した者もいる。それでも、市の馬を見つけると走る速さを上げた。
村を一つ過ぎると、また増えた。道の脇で待っていた者が、列へ加わる。誰へ名を告げることもない。
野村は数えなかった。数えても、次の村でまた増える。
明日になれば、さらに増える。どの村から何人来たかは、そのあとで書き付ければよい。
触れも回さずに出て、それでも列は伸びていった。




