【第二章 余話】第二十五話余話 動けぬ長政 柵を越える市
◇
「市、待たれよ」
長政の声が届いているはずなのに、市は振り返らなかった。
黒い馬が柵へ向かっていく。市は手綱を短く持ち、薙刀を右脇へ寄せていた。
長政は馬の腹を蹴った。市の後ろへつこうとした、そのときである。
右手の木立が揺れた。
三十を超える男たちが、一斉に飛び出してくる。槍の穂先を低く構え、浅井の馬へ向かって走っていた。
「右じゃ! 刃を立てるな。殺してはならぬ!」
長政は馬を右へ回した。
正面から来た槍を刀の峰で打ち落とす。続いて踏み込んだ男には馬の肩をぶつけ、身体ごと道の外へ押し出した。
市を追わなければならない。
顔を柵へ向けると、黒い馬はさらに遠ざかっていた。市は止まるどころか、馬の速さを上げている。
長政は追えなかった。
前へ出れば、木立から来た者たちが浅井の列へ入る。後ろには、細い道に並んだ兵と荷駄がいる。ここを空けるわけにはいかない。
左から槍が伸びてきた。長政は刀で穂先を外し、柄をつかんで引み手を馬の前へ引き倒す。
「大野木、右を押し返せ! 深く追うな!」
「はっ」
返事を聞きながら、長政は柵を見た。
市は柵に沿って走っている。黒い馬の首をわずかに左へ向け、並んだ丸太を見ていた。
越える場所を探している。
それが分かった途端、長政の指が手綱を強く握った。
「三田村!」
市の左を走っていた三田村が、こちらへ顔を向けた。
「市をたのむ」
「はっ」
三田村が黒い馬を追う。
頼むと口にすることしかできなかった。自分でで行きたい。柵の前まで追いつき、その手綱をつかんで止めたい。
それでも、目の前の者たちへ背を向けることはできない。
長政は突き出された槍を打ち払った。次の男の胸へ刀の峰を当て、馬上から押し返す。
視界の端で、市の薙刀が動いた。
刃が上を向く。
市は長い柄を頭上へまっすぐ立てていた。横に持てば柵へ当たる。馬と一緒に越えるための構えである。
「市!」
黒い馬が、丸太へ向かってまっすぐ走る。
長政は手綱を引いた。馬が前脚を浮かせる。だが、その前へ新たな槍が出され、進むことができない。
槍を刀で弾いたとき、黒い馬が地面を蹴った。
馬の身体が浮く。
市の腰が鞍から離れ、膝が馬の胴を挟んだ。頭上へ立てた薙刀は傾かない。
黒い馬が宙へ上がった。
丸太が馬の腹の下を通る。前脚が柵の向こうへ伸び、土へ下りた。続いて後ろ脚が越え、市の身体が鞍へ戻る。
黒い馬は止まらず、そのまま人の中へ入っていった。
柵の向こうで、人が左右へ散る。黒い馬の背と市の薙刀が、そのあいだを進んでいく。
長政は目の前の槍を払いながら、市を探した。
人の陰へ入るたび、姿が見えなくなる。そのたびに手綱を握る指へ力が入った。
馬から落ちてはいないか。横から槍を向けられてはいないか。弓を持つ者が、市を狙ってはいないか。
確かめたいものは増えるのに、長政の身体は柵のこちら側から動けなかった。
「大将はどこじゃ!」
市の声が聞こえた。
長政の肩から、わずかに力が抜ける。声が出るなら、少なくとも馬上にはいる。
返事は聞き取れなかった。
やがて、人のあいだから黒い馬の頭が現れた。市が手綱を引き、柵へ向きを変えている。
戻ってくる。
長政は、こちらへ向かってきた男の槍を峰で叩いた。穂先が地面へ落ちる。
「退け!」
刀の切っ先を向けると、男は槍を捨てて木立へ走った。
長政は追わない。すぐに柵へ顔を戻す。
黒い馬が速さを上げた。
市は薙刀をまっすぐ立てたまま、同じところから柵を越える。前脚がこちら側の土をつかみ、後ろ脚も丸太を越えた。
市の腰が鞍へ戻った。
長政の口から、止めていた息が漏れた。
黒い馬が近づいてくる。長政は市の顔を見て、肩、腕、手元へ順に視線を動かした。衣に血はなく、薙刀の刃にも何もついていない。
黒い馬の前脚にも、歩みの乱れはなかった。
「大将はおらぬ」
市は、それだけを長政へ告げた。
柵を越え、人の中へ入り、何事もなく戻ってきた。長政がどれほど声を上げたのかなど、気づいてもいない顔である。
市は黒い馬を陣の方へ向けた。
「ならば、陣へ戻るぞ」




