【第二章 余話】第二十三話余話 父に逆らえぬ長政 おぬし、それでよいのか
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「何を言うておるのじゃ。取ると言うたではないか」
市は長政の正面に立ち、答えを待っていた。いつものように、目を逸らさない。若狭を取れるのかと疑っている顔ではない。
長政が取ると言ったので、取るものだと思っている。
「あれは、わしに嘘をゆうたのか」
長政は右手を握り込んだ。爪が掌へ当たり、指のあいだに汗が滲む。
嘘をついたつもりはなかった。市へ若狭を取ると告げたときには、そのつもりであった。文を出し、人に会い、通れる道を増やした。
それでも、久政が反対すると何も言えなくなった。家臣たちの顔が一人ずつ父へ向く。その中で言葉を続ければ、父と争うことになる。
「・・・いや」
「では、なぜ取らぬのじゃ」
答えようとした。朝倉との関わりがある。京極への筋も通さねばならない。家中の者たちも、久政の言葉を待っている。
どれを口にしても、市が訊いていることへの答えにはならなかった。取ると言ったのに、なぜ取らないのか。長政自身にも、それ以上の答えはない。
市が長政の横を通り過ぎた。
長政は、その背へ手を伸ばそうとした。だが、握り込んでいた右手は腰の横から動かない。市の足音だけが、評定の間へ向かっていく。
「市、お待ちくだされ」
呼び止める声にも力が入らなかった。襖が開く音がする。市の足音は止まらず、そのまま中へ入っていった。
長政は廊下に残った。
追わねばならないと思う。市が久政へ何を言うのかも分かっている。それでも足が畳に貼りついたように動かなかった。
評定の間から、市の声が聞こえた。
「何故、若狭を取らぬのじゃ」
久政が答える。朝倉の名が出た。京極の名も続いた。どちらも長政を黙らせた言葉である。
「それがどうしたというのじゃ」
市の声は、襖の向こうからでもよく通った。何の迷いもない声である。
長政は顔を上げた。朝倉がいる。京極がいる。父が反対し、家臣たちはその顔を見ている。
市は、そのすべてを聞いたうえで、それがどうしたと訊いた。
長政の右手が開いた。掌には、爪の跡が四つ残っている。
市のところへ行こう。
そう思って、ようやく足が動いた。長政が評定の間へ向かうと、久政の声が聞こえた。
「おなごが口を挟むことではない」
長政は歩みを速めた。開いた襖の前まで来たとき、久政が立ち上がるところであった。
市は、その正面にいる。久政の右肩が動き、袖が肘まで下がった。開いた手のひらと、その先にある市の頬が、長政の視界へ同時に入った。
長政の身体が先に動いた。
敷居を越え、市の脇を抜ける。久政の腕が振り下ろされる前に、その手首をつかんだ。掌に骨の硬さが当たり、親指を手首の内側へ当て、残りの指を外側へ回す。
久政の手が止まった。市の頬までは、指二本ぶんほどの間しかない。
「父上、なにをなされまする」
自分の声が、ひどく低く聞こえた。父の身体へ、このような力で触れたことはない。手首は長政が思っていたより細く、脈が親指へ直接触れている。
それでも、指を緩めることはできなかった。指を開けば、その手が市へ届くかもしれない。そう思うと、長政の親指は久政の脈の上から動かなかった。
背中のすぐ後ろで、市の衣が擦れた。市が長政の脇から顔を出す。打たれかけたことなど、もう忘れたような顔であった。
市は久政へ目を向けず、長政だけを見ていた。
「長政、ほんとうに若狭は取らぬのか」
いま訊くことなのかと思った。だが、市にとっては、ほかに訊くことがないのだろう。久政の上げた手よりも、長政が若狭を諦めたことの方を気にしている。
市はさらに顔を出し、長政の目を覗き込んだ。
「おぬし、それでよいのか」
責めているのではない。市は、長政の答えを知りたいだけである。
久政の脈が、長政の親指を一度押した。
若狭が欲しいわけではない。国を増やしたいと思ったこともない。若狭を取ったとき、市はきっと笑う。
薙刀を肩へ載せ、自分が取ったのだと得意そうな顔をする。長政が見たいのは若狭ではない。その顔である。
父に逆らわなければ、その顔を見ることはできない。ここで諦めれば、市へ告げた言葉も嘘になる。それでよいはずがなかった。
長政は久政の手首から指を一本ずつ離した。最後に親指を外すと、久政の袖には強くつかんだ跡が残っていた。
一歩下がり、市の前へ立ったまま、座の者たちへ身体を向ける。評定の間にいる者が、今度は久政ではなく長政を見ていた。
長政は息を吸った。
「これより、若狭を取る」




