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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第二章 若狭】

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【第二章 若狭】第二十九話 若狭の海

一五六二年 秋  近江 小谷



 城の前で、久政が待っていた。


 二年前と同じ、道の出口の正面である。供の者が二人、少し後ろにいた。


 城の前には、家中と城下の者が出ている。夏に若狭から引いたとき、迎えにいたのは荷や馬を受け取る者だけであった。今日は、道の端に子を連れた者まで並んでいた。


 夏に行かなかった者も、行った者へ若狭の城や市の戦いを訊いている。糧と兵が足りなかったことは、誰も話さなかった。


 赤尾清綱は、道の脇に立っていた。久政との間にも、何人か家臣がいる。皆が道の下を見ていた。


 初めに旗が見え、次に馬が見えた。話し声が止まる。


 先頭に市がいた。


 薙刀を右手に持っている。刃には布が巻かれ、柄には前になかった革が巻いてあった。誰が巻いたのかを、市は知らない。


 馬の歩みは遅い。城の前へ出ると、市は待つ者を見回した。


「若狭は、獲ったぞ」


 声が上がった。城の前から道の下へ広がり、また上へ戻ってくる。


「大将も討ち取ったわ」


 今度は、初めより大きな声が上がった。


 市が薙刀を持ち上げる。夏に若狭へ行かなかった者も、槍の石突きで地面を打っている。


 市は馬を降りた。人が寄り、輪ができる。市が、その真ん中になった。


「お市様、若狭の城はいかがで」


「門を開けて出てきおった」


「城へ籠もらなかったのでございまするか」


「うむ。よい心掛けじゃ」


 周りが笑った。


「大将は、お市様が」


「わしが落とした」


 また声が上がる。見ていなかった者が、どのような一撃であったかを別の者へ説明する。市は違うとも、そうじゃとも言わない。ただ笑っていた。


 久政のところへは、誰も行かなかった。


 書き付けを抱えた男が、輪の外を回っていく。


 城を明け渡した日。蔵の米と武具。降った者の名と所領。誰を城へ残し、誰を小浜へ送ったか。若狭の始末とは、そういうものであった。


 誰が誰と話をつけたかは書かない。なぜ門が開き、小浜が三日で浅井の旗を受け入れたのかを書く欄はなかった。


 赤尾は、男を見ていた。


 夏にも若狭から報せを運んだ者である。あのときは古い棟の前で呼び止められ、久政の部屋で書き付けを開いた。


 今日も同じ道を通る。


 男は、久政の前で歩みを止めなかった。通りながら頭だけを下げ、そのまま長政のところへ行った。


「殿、若狭の始末、こちらに」


「うむ」


 長政は両手で受け取った。城を明け渡した日を見る。次に、降った者の名を見た。


 どちらも、前から知っていたものを確かめるように見ただけであった。


 残りと重ねて、脇へ挟んだ。


「あとで参れ」


「はっ」


 長政は、輪の中の市を見た。


 市は、大将が門を開けて出てきたところを、また話していた。


 長政は、少し笑った。


 市は気づかなかった。


 それから、長政は久政を見た。市の輪を避け、人の間を抜けて正面へ行く。


 片膝をついた。


「父上、若狭、獲りましてございまする」


 久政は答えなかった。


 唇が開き、閉じた。もう一度わずかに開いたが、声にはならない。


 そうか。


 二年前から、長政が勝って帰るたびに返してきた一言である。褒めも責めもせず、したことを受け取るだけの返しであった。


 進藤を討ったとき。六角の陣を崩したとき。義賢を討ち、南近江を平らげたとき。長政が膝をつき、久政がそうかと言った。


 夏には報告そのものがなかった。今日は、二年前と同じように長政が膝をついている。


 それでも、その一言が出なかった。


 長政は顔を上げずに待った。脇へ挟んだ書き付けの端が、地面へ近づいている。


 市を囲む輪から、笑い声が聞こえた。小浜の海は広いらしいという声も届いた。


 久政は何も言わない。


 長政は、しばらくして頭を下げた。返事を受け取ったのではない。待つ時間を終えただけであった。


 立っても、勝ったとは言わなかった。久政にもう一度頭を下げ、下がろうとした。


「長政、はよう来い。皆が待っておるぞ」


 市の声がした。


 長政が顔を上げた。市を見る。


「父上、御免」


 輪へ向かう。初めの数歩は静かであった。市がもう一度呼ぶ前に、歩みが速くなった。


 人が場所を空け、長政は輪へ入った。


「遅いぞ」


「申し訳ござりませぬ」


 市は、それで済ませた。


 長政の脇にある書き付けを見ない。何が書かれているのかも訊かなかった。


「今宵は宴じゃ。支度せい。祝いじゃ」


 台所の者と蔵役が、長政を見た。


「みなの者、支度をせい」


 長政が言うと、輪が崩れた。台所、蔵、城下へ、それぞれが走っていく。


「酒はいくつ残っておる」


「数えておらぬ」


「ならば、いま数えよ」


 笑い声が起きた。


 長政は、市の隣で笑う者たちを見ていた。その向こうで、久政が一人、城の中へ戻っていく。


 赤尾だけが、それを見送った。


 市の周りには、まだ何人か残っている。市は、もう次の話をしていた。


「越前はどうじゃ。近いではないか」


 誰かが口を開いたが、続きは出なかった。


 市は待たず、山の向こうを指したまま笑った。



一五六二年 秋  若狭 小浜



 言い出したのは、市であった。


「茶々に海を見せる」


 それだけである。理由は言わなかった。


 翌朝には支度ができた。供は少なく、乳母と女が二人、市の周りの者が数騎ついた。旗も兵も連れていかない。


 峠を二つ越えた。二日かかった。茶々が泣くと、市は先へ行かず、乳母の速さに馬を合わせた。


 小浜へ着いたとき、日はまだ高かった。


 港は動いていた。人足が浜から蔵へ荷を運び、数を読み、札をつける。建てかけの蔵もある。浜から山へ向かう道には、十頭を超える駄が繋いであった。


 建てかけの蔵は柱と半分の梁だけで、屋根もない。使えるのは来年の夏である。それでも、もう普請は始まっていた。


 長政は、それを見た。


 通り銭を取らず、荷を止めない。それしか約束していない。蔵を建てよとも、近江へ荷を回せとも言わなかった。


 市は、そちらを見ていない。


 馬を降り、乳母から茶々を受け取った。抱いたまま浜へ歩いていく。


 砂へ足が入り、身体が傾いた。


 長政が、一歩出た。


 市は自分で足を戻した。茶々を抱く腕は動かない。


 長政は、その場で止まった。出した足が砂に沈んだままになっている。市は、長政が動いたことに気づかなかった。


 波打ち際の手前で、市は海を見た。左を見る。右を見る。どちらにも陸の終わりは見えない。


 振り返り、長政を見る。


 目が合った。


 市は何も言わず、また海へ向いた。


 長政は動けなかった。何か言われたわけではない。それでも、海を背にした市から目を離せない。


 市は茶々を抱え直し、身体を海へ向けた。


「茶々、これが海じゃ」


 茶々は海ではなく、風に揺れる市の袖を見ていた。手を伸ばし、掴んだ布を口へ運ぼうとする。


 市はその手を離させ、もう一度海へ向けた。


「こちらを見よ」


 茶々は声のする方へ顔を動かし、市を見た。


 市は茶々を見て、それから海を見た。


「おぬしの父上の海じゃ」


 長政は顔を上げた。海を見る。次に、市の腕の中の茶々を見る。


「・・・」


 何も言わなかった。市も返事を求めていない。


 海から風が来た。茶々の髪が動き、市の髪が頬へかかった。両手で茶々を抱いているので、市は払わなかった。


 髪を頬へかけたまま、海を見ている。


 乳母へ茶々を渡すと、市は髪を払い、袴についた砂を払った。一度では落ちず、もう一度払う。それでも残ったので、そのまま浜を歩いた。


 波打ち際でしゃがみ、寄せた水へ右手を入れた。濡れた指を口へ入れ、すぐに抜く。


 眉が寄った。


 こちらを向いた。


「しょっぱいのう」


 長政は答えなかった。


 口元だけが、少し動いた。


 市を見ていた。海から風が来ているのに、顔が熱い。


 市は返事を待たず、岩の並ぶ方へ歩いていった。


 長政は乳母のところへ寄り、茶々の顔を覗き込んだ。


 茶々は長政を見た。


 長政は顔を上げた。市は、もう先へ行っている。


 長政は砂から足を抜いた。


 市のあとを追った。

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