【第二章 若狭】第二十八話 二度目の若狭 柵はなかった
一五六二年 秋 若狭
峠を二つ越え、谷を下った。
道は夏と同じように細い。だが、後ろは伸びていなかった。糧の駄は前より多く、それでも縫って先頭まで戻るのに四半刻もかからない。
大野木秀俊は市の右、三田村国定は左にいた。長政は、その少し後ろで全体を見ている。
谷が開けた。
刈り入れ前の田には人がいる。家の戸は開き、井戸端の女は、こちらを見てからまた水を汲み始めた。
夏にここまで来た兵が、あれが柵のあった村だと隣へ教えた。声が、列の後ろへ順に伝わっていく。
柵のあった場所まで来た。
柵はなかった。
道が、そのまま向こうへ続いている。埋めてあった柱を抜いた穴だけが、両脇に六つ残っていた。
二百か三百の者が並んでいた場所にも、誰もいない。
三田村は、それでも旗や幕を探した。夏には大将がいなかった。今度は、探す相手そのものがいない。
「殿。ここは・・・」
夏は、通れるはずの道がなぜ塞がっているのか。今度は、塞がっていた道がなぜ開いているのか。どちらも同じ問いであった。
長政は答えなかった。手綱を持つ手を動かさず、柱の跡を見ている。夏と同じであった。
「なんじゃ、誰もおらぬではないか」
市は馬上から見回した。柱の跡には目もくれない。
「つまらぬのう。行くぞ」
市が馬を出した。
長政は、その背中を見た。それから柱の跡へもう一度目を落とし、馬を進めた。
列が動き、穴は蹄に踏まれて少しずつ崩れた。
大野木は、通り過ぎるときに下を見た。
穴の底には、水が溜まっていた。
◇
城が見えたのは、二日目の昼前であった。
若狭武田は、若狭の守護である。甲斐の武田から分かれ、安芸を経て若狭へ入った。将軍家に近い家であった。
その家中が、いま割れている。城から呼んでも、来る者と来ない者がいる。
城は山を背負い、前には刈り入れの終わった野が広がっている。浅井は、その向こうへ陣を張った。
兵は割り当てに近い数がいる。遅れた隊はなく、糧も合っていた。
大野木は、市の右にいる。馬を半歩だけ後ろへ置いていた。並べば、市の薙刀が振られたときに柄が当たる。離れすぎると、横から入る槍を払えない。何度も戦へ出るうちに、いまの場所へ決まった。
初陣で教わったのは、長政の真似をせよということだけである。初めは長政自身が、市へ向かう槍を落としていた。
いま、長政は反対側にはいない。市の少し後ろから、周囲と陣の全体を見ている。槍を落とす役は、いつの間にか大野木のものになっていた。
城に籠もられれば、こちらが先に糧に困る。
若狭の城は水と蔵を持ち、背後には山がある。中が何日もつかは分からない。浅井の糧が何日もつかは、陣を張ったときから数えられていた。
だが、昼を過ぎると門が開いた。
槍を持った者に続いて、旗が出た。
旗が立っている。
今度は、立っていた。
城の門は大きくない。千を超える兵が二人ずつ門を出て、野へ広がった。旗の下へ集まり、向きを揃える。まだ端まで並び終わっていない。
馬が出るたび門で詰まる。出た者には前を向けという声が飛び、後ろでは自分の旗を探す者がいた。
浅井の陣では、皆が命を待っていた。
「大将はどれじゃ」
三田村は、すでに見つけていた。
「あれにござります」
ほかより大きな旗。その下に床几がある。母衣を負った者が出入りしていた。
「よし」
市が、馬を出す。
長政が、市を見る。
市を止めない。
大野木が続く。
三田村も出る。
騎馬がまとまって動く。
正面から当たる。
武田の前列が、まだ揃わない。
槍を構える者がいる。
前へ出よと、並べという声が重なる。
相手の動きが決まる前に、市が迫る。
市の左右が、槍を払う。
最初の穂先を、市から外す。
相手と槍の間へ、馬の首を入れる。
その下を、市が通る。
旗の集まるほうへ、市が駆ける。
途中で止まらない。
市の後ろも、全速で駆ける。
相手の者が、横へ避ける。
相手の列が崩れる。
崩れたところへ、騎馬が入る。
旗の下に床几が見える。
距離が縮まる。
市が真正面から入る。
輪が左右へ散る。
市の薙刀の柄が、胸を払う。
一人が横へ飛ぶ。
床几の前まで迫る。
相手が床几から、立ちかける。
市の刃が、日に光って上がって落ちる。
人が倒れて、床几も倒れる。
その上を、市の馬が越えていく。
大野木は馬を降り、自分の槍を野村へ投げた。野村が受ける。言わなくても受けるようになって久しい。
倒れた者は、まだ腰の刀へ手を伸ばしていた。大野木が腕を押さえ、もう一人が肩を押さえる。二人で仕留めた。
大野木は刀を抜き、首を落とした。三つ目までは手が震えた。いまは震えない。
近くにいた武田方の者へ訊いた。
「これは誰か」
「・・・武田大膳大夫、義統さまにござる」
大野木は息を吸い、声を張った。
「お市様、敵が大将、武田大膳大夫義統の首、討ち取ったり」
市が振り返った。
「そやつが大将か」
笑った。
長政は少し後ろから、その笑う顔を見ていた。
「敵が大将、討ち取ったり」
自分で斬った者である。市にとっては、初めから大将で決まっていた。
「よし、勝鬨をあげよ」
「おおー」
声が野の端まで届いた。
市は薙刀を天に上げた。それから脇に挟み、城へ馬を向ける。
長政は、その姿を見ていた。勝鬨が後ろまで届くと、ようやく馬を進め、市の向かった門と崩れる武田勢を見比べた。
武田方は、大将を失って崩れた。城へ戻る者と、山へ逃げる者に分かれる。
行きには半刻かけて出た兵が、一度に門へ集まった。先に着いた者が入り、後ろから来た者が押す。槍と旗が戸へ当たり、入れない者は山へ向きを変えた。
「武田が大将、討ち取ったり」
その中を、市が走る。大野木が右、三田村が左についた。
市は門の手前で馬を止めた。人が詰まり、中へ入れば動けない。
上から、崩れる者たちを見ていた。
◇
書き付ける者が来たのは、そのあとである。
首を確認し、誰の首か、どこで討ったか、誰が落としたかを訊いた。
首は布の上に置かれていた。顔が隠れないよう、下だけを包んである。倒れた床几を指して、討った場所を伝えた。
「討ち取ったのは」
「お市様にござる」
御方様、と書き付けられた。
大野木は、市の右を走っている。市は、自分が討った大将の首を、誰が包み、誰が書き付けたのかを知らない。
その日のうちに城は明け渡された。武田の旗が下り、浅井の旗が上がった。
市は、馬上からそれを見た。
「取ったぞ」
誰に言ったのでもない。
長政は、市と上がっていく旗を見ていた。
◇
三日後、小浜が浅井のものになった。
雪が降り始めたころ、若狭は、浅井のものになった。




