【序章 輿入れ】第三話 一言も発しなかった
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広間には、朝のうちに畳を入れ替えてあった。青い匂いがまだ残り、開けた障子から庭の光が敷居の内まで差し込んでいる。
家臣は、上座に近い者から年の順に二列で並んでいた。誰も喋らないが、静かではない。同じ者が何度も裾を直し、そのたびに衣擦れが鳴った。
赤尾清綱は、上座に近い側に座っていた。久政の父の代から仕える譜代で、長政が生まれてからは傅役を務めた。元服して役目は終わったが、そのまま側に残っている。誰も外せとは言わず、赤尾も退くとは言わなかった。
口上を述べるのは、赤尾の役であった。
文句は昨夜のうちに決めてある。長すぎず、短すぎず、織田を立てすぎず、浅井を低くしすぎず、三度書き直した。頭の中でも、すでに何度かさらっている。
織田の姫の噂は、この座の全員が聞いていた。兄と同じ気質であるという。木曽の川筋で人を斬った。輿には薙刀を入れてある。国境を越えるとき、供の者を叱りつけた。話は日ごとに増えていったが、誰も否定しなかった。
何を言われるか分からず、返事の仕方も分からない。赤尾は口上を途中で遮られた場合まで考え、どこから続けるかを決めていた。
久政が入り、上座の脇へ座った。続いて長政が上座へ座り、膝に手を置いて庭を一度見た。それきり動かなかった。
廊下で、衣の擦れる音と足音がした。女のものにしては重い足音であった。
襖が開いた。
市が入ってきた。
白の小袖に赤の打掛を着け、髪を結っている。侍女を二人連れ、上座の下まで進むと膝を折った。片手で裾を直し、背を伸ばした。
顔が上がった。
美しい、と赤尾は思った。それは口上とは何の関わりもない。次に思ったのは、何も言わない、ということであった。
市は、一言も発しなかった。
座を見渡しもせず、誰かに目を留めることもなく、ただ正面を向いて座っている。両手は膝の上に置かれ、指は組まれていない。背筋は伸び、肩も落ちていない。山を登ってきたばかりなのに、息も上がっていなかった。
衣擦れが止んだ。
何か言われれば返し、叱られれば頭を下げるつもりでいた者ばかりである。誰も、腹に入れていた力の使い道がなかった。
赤尾は口を開こうとしたが、三度書き直した最初の一行が出てこなかった。膝の上で扇を持ち直す。持ち直したところで、何も変わらない。
列の中ほどで、扇を落とした者がいた。拾って膝へ戻すまでに、ずいぶんかかった。市はそちらを見なかったが、そのあいだも誰も口を開かなかった。
凛としておられる、と赤尾は思った。そう思うことにした、という方が正しいかもしれない。人を斬った、薙刀を持っている、供を叱りつけたという噂は、いつのまにか頭から抜けていた。
赤尾はもう一度、口上を始めようとした。今度は最初の一行を思い出している。だが、この座で読み上げるには、用意した文句がひどく軽く思えた。そう思ってしまうと、もう読めなかった。
上座を見ると、長政が顔を伏せていた。庭の光が差しているため、耳のあたりまで赤いのが分かる。膝の上では袴の布を握り、指の関節が白くなっていた。
山を登ってきたばかりだからだ、と赤尾は思った。殿は朝から動いておられた。それだけのことであろう。
そう思って目を戻す途中で、久政が見えた。
久政は市ではなく、上座の息子を見ていた。何を思っているのかは分からない。眉も動かさず、ただ長政を見ている。
どれほど経ったのか、赤尾には分からなかった。庭から差す光が、敷居の上を少し移っていた。
市が、音もなく立ち上がった。
誰も止めなかった。止める言葉を持っていなかった。市は裾を払い、侍女へ顔を向けると、そのまま襖へ歩き出した。歩幅は、麓で見たときと変わらない。
座の全員が慌てて頭を下げた。前の列が下げてから、遅れて後ろの列が下げた。
襖が閉まった。
しばらく、誰も頭を上げなかった。上げてからも、言葉は出なかった。
赤尾は膝の上の扇を見た。口上はまだ頭の中にあったが、使う場所はもうなかった。
上座では、長政だけが、まだ顔を上げていなかった。




