【序章 輿入れ】第二話 目が合った気がした
一五六〇年 春 近江 小谷
小谷城から降りて、道が折れるところに、松が三本、斜面から迫り出している。
長政はその陰に立っていた。登り口から少し上がっただけの高さで、下の道がよく見える。
この道は、敵が寄せてきたときに下を見るためのもので、城の者でも知っている者は数えるほどしかいない。
ここに立つと、麓に立つ者の頭より、いくらか上になる。声は聞こえない。下から見上げても、木立と斜面に隠れて人がいるとは分からない場所である。
城下の道には、朝のうちから水が打たれていた。乾いたところにまた撒く者がいる。石を除ける者がいる。犬を追う者がいる。それが済むと、皆が道の脇へ下がって、そのまま動かなくなった。
家臣は、登り口までの両側に並んでいた。みな前を向いている。膝に手を置いた者、袴の裾を直す者、隣と何か言い合って、すぐ黙る者。
並び順は昨日のうちに決めてある。長政が決めた。誰と誰を離すか、誰を前へ出すか、そこまで含めて決めた。
どの背中も、いつもより硬かった。
その者の噂は、先に小谷に届いていた。織田の姫は兄と同じ気質だという。誰が持ってきたかは分からない。行商が言ったとも、越前から来たとも聞いた。中身は、日を追うごとに増えていた。馬に乗るという。刃物を離さぬという。
父が聞けば眉を寄せる類の話であり、実際、久政は昨日、それを聞いて何も言わなかったが、顔が微かに曇っていた。
街道の先に、砂埃が上がった。見る見るうちに近づいてきた。
荷が先に来た。長持が続く。棒を担ぐ者の足並みが揃っていて、担ぎ手を織田で選んできたことが分かる。
どの荷にも、金色の織田木瓜が大きく入れてあった。次に供の徒歩。次に馬。それから輿が来た。
輿は、戸を閉じたままであった。簾も下りている。担ぎ手は歩調を変えず、道の真ん中を進んでくる。中は見えない。すれ違う家臣が、頭を下げてから、下げたまま輿を目で追っている。
輿は登り口で止まった。
小谷は山の城である。ここから上は道が細くなり、折れて、また折れる。輿は上がらない。ここまでと決まっている。それは織田にも先に伝えてある。
供の者が輿の脇へ回った。戸が開いた。
中から手が出た。供の者が支えようと手を差し出したが、中の者はそれを取らなかった。自分で足を下ろし、輿を降りた。
市である。
市は、袴の膝のあたりを一度払った。旅の埃である。それから背を伸ばした。
並んでいた家臣に見えたのは、そこまでであった。降りた者の後ろ姿と、旅装束の背中。誰も上は見ない。見る理由がない。
市が、顔を上げた。
山を見ている。道が折れて消えるところから、その上の斜面、さらに上の櫓。順に目で追っている。首がすっかり上を向いて、顎が上がった。
その線の先に、長政がいた。
ドキッとした。あちらからは決して見えないのは分かっていた。しかし目が合った気がした。市の顔は、たしかにこちらを向いている。
整った顔立ちであった。色が白く、日に焼けたことがないであろう肌をしている。眉が細く、頬に張りがある。近いので、そこまで見えた。
日は東から差していて、額と鼻筋に当たっている。目が細くなっている。眩しいからである。口は結んでいない。少し開いている。
長政の足が、半歩前へ出た。踏み替えて、戻した。松の幹に手をついた。ついた手が離れない。
息を吸って、吐かなかった。しばらくして吐いた。
市は、まだ上を見ていた。それから目を戻した。城を見終わったからである。目は斜面を下りてきて、道へ落ちた。木立の中を通ったが、そこには何もない。
下で声がかかった。供の者が何か言い、市が短く返した。言葉は届かない。
列が動き出した。荷が先に上がっていく。市は歩き出した。道の真ん中を、供に先を譲らずに歩いている。歩幅が広い。道が折れるところで、一度、履き物の泥を見た。それだけで、また歩き出した。
家臣が下がって道を空ける。頭を下げる。下げた頭の上を、市が通り過ぎていく。
風が出て、木の枝が鳴った。下の道では、水を打った跡が、もう乾き始めていた。
列は、折れ口へ向かって上がってくる。
長政は松の幹から手を離した。離した手をどこへ置けばよいのか分からず、木立の内側に立ったままでいた。
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