【序章 輿入れ】第一話 京への道は、この市が作ってみせまする
輿入れの翌日、織田の姫・市は戦場へ駆けた。
夫・浅井長政の、長い戦が始まる。
一五六〇年 春 尾張 清洲
庭の松に、まだ縄が巻いてある。雪囲いを解く日を、庭の者が決めかねているらしかった。
縁に片膝を立てて座った男が、それを見ながら湯漬けを食っていた。椀は冷めかけ、汁を吸った飯が箸の先で崩れた。
男の名を、織田信長と言った。
奥の廊下で板が鳴った。歩幅が広く、踵が落ちる音である。信長は椀を置かずに、もう一口かき込んだ。
障子は開け放してある。縁の内へ入ってきたのは、妹の市であった。
市は膝をついたが、背筋は伸びたままであった。袖には白い糸くずが二筋ついている。打掛の寸法を詰めている最中に、そのまま出てきたのだろう。
「兄上」
「食っておる」
市はそれに構わず、膝の上に手を重ねた。指は組んでいない。
「織田のために浅井へ嫁ぎまする」
信長は箸を止めた。庭の縄がほどけかけ、風もないのに先だけが揺れている。
「よいのか。お前は駒ではない。ここにおって、わしを手伝え」
「そのために行きまする」
言い方に淀みはなく、考えてから答えたような間もなかった。
「京への道は、この市が作ってみせまする」
信長は、その言葉をどこで聞いたのか考えた。考えるまでもなかった。自分が言っていることである。膳の前でも、馬の上でも、家臣を並べた席でも言った。市はそれを覚え、そのまま持ってきている。
浅井とのことは、こちらから持ちかけた話ではない。あちらにも背後の憂いがあり、こちらにもある。互いに背中が欲しいというだけの取り決めであった。だから頭を下げさせてもいないし、こちらから下げてもいない。
なにより、京への道が開くかどうかは、それとは別の話である。
市がそこを分けていないことは、聞けば分かった。分けて聞かせたことがないからであった。
信長は、椀を膝の横に置いた。
「・・・よいのか」
市が顔を上げた。眉が寄っている。困っているというより、聞き取れなかったという顔であった。
「なにが、でござりまする」
何を訊きたかったのか、信長は自分でも言葉にできなかった。訊いたのは、道のことでも浅井のことでもない。
北へ行けば、雪が遅くまで残る。小谷は山の城で、輿は麓までしか上がらぬと聞いている。そうしたことを一つずつ並べたところで、この妹に渡るものは何もない。
いや、そんな理由ではない。信長は、ただこの妹が心配なだけだった。どこにもやりたくなかった。言ったところで、どうなるものでもない。
市は答えを待っている。膝の上に重ねた手は、動いていなかった。
信長は市の顔を一瞥し、外を見た。
「・・・わかった。行ってまいれ」
「市に、お任せくださりませ」
市は膝を立て、そのまま出ていった。板の鳴る音が奥へ遠ざかり、途中から速くなった。
信長は椀を取り上げ、飯を乱暴に口へ入れた。なんの味もしなかった。
庭では、縄の先がまだ揺れている。
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