【第二章 若狭】第二十六話 引いたあとの小谷 まだ取っておらぬ
一五六二年 夏 近江 小谷
若狭からの報せは、久政のところへ先に来た。
運んできた若い者が、古い棟の脇を抜けたからである。半刻を争う報せでもなかった。
「若狭より、御注進」
声が、開いていた部屋へ届いた。
赤尾清綱は、中にいた。ひと月前には五人であった部屋に、今日は十を超える者がいる。誰も呼ばれていない。皆、自分から来た者であった。
取次が書き付けを開いた。
道が柵で塞がれていたこと。御方様が柵を越えたこと。大将がいないので戻ったこと。糧がもたず、兵も半分ほどしか来なかったこと。それで、若狭から引いたこと。誰がどうしたという話は、一つも入っていなかった。
長政は、若狭から帰る道でも城へ着いてからも、何も言っていない。なぜこうなったのかを口にしたことがあるのは、この城に一人だけであった。
筋が通らぬ戦じゃ。
ひと月ほど前、久政がこの部屋で言った。
下座の若い者が口を開いた。
「やはり大殿の申された通りではないか。・・・筋の通らぬ戦であったのでござろう」
久政は答えなかった。
赤尾は、その者を見た。若狭へは行っていない。この部屋にいる者の多くも、そうであった。行かなかった者が、ここにいる。
日が暮れると、一人ずつ帰り始めた。
「また、参りまする」
前にはなかった言葉である。久政は、それにも答えなかった。襖は開いたままであった。廊下を人が通るたび、灯の前を影が横切った。
その夜、長政は来なかった。
◇
翌朝、長政は部屋にいた。
机の右へ判を置く。朱肉の蓋を開ける。いつでも押せるようにした。
誰も来なかった。
いつもなら、朝のうちに三人か四人は来る。荷を出すにも、蔵を開けるにも、村へ人を出すにも、長政の印が要る。だから朝は、誰かしら廊下で待っている。今日は、その姿がなかった。
足音は、部屋の前まで来た。いつもなら止まる。今日は、そのまま通り過ぎた。
長政は書き付けを読み、脇へ寄せた。押すものだけが積み上がり、受け取る者は来なかった。判も朱肉も、右手を伸ばせば届くところにある。それでも、押す相手がいない。
庭から声がした。
「えい」
風を切る音が続いた。長政の手が止まった。縁へ出る。
市が、庭の真ん中で薙刀を振っていた。
両手で柄を持ち、上へ上げる。止める。上から下へ振る。刃が地面へ届く前に止まる。そのまま横へ回る。
速い。腹に子がいた頃は、長政が前へ回り込めた。いまは入れる場所がない。
道が塞がったことも、人と糧が足りなかったことも、市の顔には残っていなかった。
振り終え、市が長政を見た。目が合う。市は何も言わず、庭の隅へ目を移した。目を移されても、長政は市を見ていた。
庭の隅には、若狭へ行った兵が十人ほどいた。昨日帰り、そのまま残っている。荷を分ける仕事は、朝までに終わっていた。それでも城下へ下りず、市の稽古を見ていた。
市が、そちらへ歩いていった。
「おぬしら、まだおったか」
兵が一度に立つ。一人が袴の裾を踏み、前へ倒れかけた。市は肩を掴んで止め、そのまま一度叩いた。何かを言われた兵が笑った。周りも笑う。
市は一人へ薙刀を渡した。受け取った者は刃の重さに負け、隣の者が柄を支えた。構えると、両手の間が狭く、腰も高い。市は前へ出て、柄を持つ手へ自分の手を重ねた。手と足の位置を直し、顎で振れと示した。
兵が振った。身体が前へ流れ、周りが笑う。二度目には、刃が地面へ届く前に止まった。
「おお」
兵は自分で声を上げ、また笑われた。
薙刀が次の者へ渡る。市は、その前に名を呼んだ。呼ばれた兵が出る。振り終えるたびに市が何かを言い、皆が笑った。名を呼ばれた者は、誰も後ろを見なかった。自分だと分かり、すぐに前へ出た。
長政は、縁に立って見ていた。
昨日、この者たちは何も討っていない。柵の前で止まり、陣を張り、引いた。武功を書き付けるものは何もない。帰り道にも、話す種はなかった。傷を負った者さえ一人もいない。
それでも笑っている。市に名を呼ばれれば前へ出て、もう一度と言われれば、もう一度振る。へこたれているのは、行かなかった者の方であった。
市が薙刀を取り返し、肩へ載せた。庭を横切ってくる。
「長政、次はいつじゃ」
「・・・」
長政は答えなかった。
市が薙刀を肩から下ろし、石突きを地面へ置いた。
「若狭じゃ。まだ取っておらぬ」
長政は、市の顔を見た。
柵の前で、大将がおらぬと聞いたときと同じ顔である。引くと決めたときとも変わらない。負けたとも、終わったとも思っていない。昨日は進めなかった。だから引いた。まだ取っていない。ならば、次も若狭である。
市が言ったのは、それだけであった。
「・・・は」
市は、それで済ませた。いつ出るのかも、どう取るのかも訊かない。身体の向きを変え、まだ振っていない者の名を呼んだ。返事をした長政を、もう振り返らなかった。
長政は、その背中をしばらく見ていた。
部屋へ戻る。
誰も取りに来ない書き付けを、机の端へ寄せた。朱肉の蓋を閉じる。厚い紙を二枚出した。硯へ水を入れ、墨を磨る。
庭から兵の声がした。すぐに笑い声が続いた。
長政は筆を取った。行き先は二つ。一つは若狭の中。もう一つは、その外である。二枚へ最初の一行を書く。宛名は書かなかった。二通とも、自分で持っていくことにした。
使いへ渡せば、また取次を通る。止めよと命じる者はいない。それでも、出るまでに日が過ぎる。
海北の先で束が一日置かれる。一日が二日になる。海北を替えても、その先が同じなら変わらない。どちらへ先に行くか。
長政は筆を置き、二枚を見比べた。
決めるのに、少し時間がかかった。




